佐倉城
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logo佐倉城
千葉県
復元された椎木門の馬出
別名鹿島城
城郭構造連郭式平山城
天守構造御三階櫓(独立式層塔型3重4階 1616年 非現存)
築城主鹿島親幹
築城年天文年間か
主な改修者千葉邦胤土井利勝
主な城主鹿島親幹、千葉邦胤
土井利勝堀田氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構土塁
指定文化財佐倉市史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分19.16秒 東経140度13分0.18秒 / 北緯35.7219889度 東経140.2167167度 / 35.7219889; 140.2167167座標: 北緯35度43分19.16秒 東経140度13分0.18秒 / 北緯35.7219889度 東経140.2167167度 / 35.7219889; 140.2167167
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佐倉城(さくらじょう)は、千葉県佐倉市城内町にあった近世日本の城江戸時代には佐倉藩藩庁が置かれた。市指定史跡[1]および日本城郭協会選定の日本100名城(第20番)である。城跡佐倉城址公園として整備されている。
概要出丸

佐倉城は、鹿島山(標高30メートル)の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていたとされる。

戦国時代本佐倉城千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤[2]に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中断、千葉邦胤の代にも工事が試みられたが邦胤の暗殺によって頓挫、いつしか築城予定地には鹿島幹胤にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったとされる。なお、鹿島氏は神島氏とも称され、千葉親胤の兄で邦胤の実父でもある千葉胤富の室は神島氏の出身とされている。彼女は邦胤の生母では無かったが千葉家中に大きな影響があり、邦胤の暗殺後に北条氏政が息子の直重を千葉氏に送り込もうとした際に彼女の支持を取り付けたことで実現したと伝えられている[3]

1610年慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成した。江戸時代佐倉藩藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、更に初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。

城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

1962年昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され[1]、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。

本丸二の丸三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している[4]。また、予算の関係で天守、本丸御殿、二の丸御殿、対面所、櫓、門、土塀、米倉といった建物の木造復元計画はない。
歴史・沿革

天文年間、千葉親胤の命により、鹿島親幹が築城。千葉邦胤が改修を試みるも、邦胤自身の暗殺により中断。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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