佐井 好子
出生名同じ[1]
生誕 (1953-06-22) 1953年6月22日(70歳)[1]
出身地 日本 奈良県
学歴同志社大学[1][2]
ジャンルフォークソング、J-POP、プログレッシブ・ロック
活動期間1975年 - 1979年
2001年 -
レーベルテイチク (1975年 - 1977年)
日本コロムビア (1977年 - 1979年)
Pヴァイン・レコード (2008年 - )
公式サイト ⇒http://www.saiyoshiko.com/
赤い鳥[2]
佐井 好子(さい よしこ、1953年6月22日[1]-)は、奈良県出身の女性シンガーソングライター、作曲家、詩人。本名は同じ[1]。1975年、アルバム『萬花鏡』でデビュー。1979年、音楽活動停止[1][2]、2001年より活動を再開[1][3]。ジャケットの絵は自ら水彩色鉛筆で描いている[4]。 1953年、奈良県南部に生まれる[1]。子供の頃から絵を描くことが好きで、絵画と読書が趣味であった[1]。好きな作家は江戸川乱歩[1]。中学生時代はコーラス部に所属していた[2]。高校時代にはフォークグループ「赤い鳥」に憧れてバンド活動をしていたこともあった[1]。 1972年に京都市立芸術大学を受験するも不合格となり、同志社大学法学部に進学する[1]。しかし入学直後から腎臓病にかかり入院、約1年間にわたり闘病生活のため安静を命じられる[1]。そのため病床で読書に傾倒し「この時期に著名な作家の本はほとんど読んだが、病気のためか暗い小説を読んでいると落ち着いた」という[1]。小栗虫太郎、橘外男、夢野久作、久生十蘭、横溝正史などの幻想文学作家の小説を多数読破し、この体験が彼女の世界観形成に大きな影響を与えることとなる[1]。 その後、大学在学時から詩作、作曲を始める[2]。退院後に詩作を始め「詩を歌にすれば多くの人に聴いてもらえる」と思い、ギターで曲を付けるようになった[1]。 1974年に楽曲をラジオ番組などのコンテストに応募したことがきっかけで、その直後に依頼を受け、中山ラビのコンサートで前座をつとめるようになる[1][2]。ステージ終了後にオファーを受けた2社のうちからテイチクと契約する[1][2]。 1975年5月、大野雄二プロデュース・編曲によるファーストアルバム『萬花鏡』を録音、同年8月25日にリリースしてテイチクからデビュー[1][2]。翌1976年には、シルクロードをモチーフとしたセカンドアルバム『密航』をリリース[1][5]。編曲はクニ河内[1]。 1977年、テイチクから日本コロムビアへ移籍し、夢野久作の世界をモチーフとしたアルバム『胎児の夢』をリリース[6][7]。同年には詩集『青いガラス玉』(婦人生活社)を出版[3]。また日活映画『夢野久作の少女地獄』の主題歌もコスモスファクトリーの演奏で担当した[1][7]。 1978年にはインドへ旅行し[1]、日本コロムビアからの最後のアルバムとなる『蝶のすむ部屋』をリリース[1][8]。全3作とは方向性が変わり、ジャズピアニストの山本剛が率いる山本剛トリオをバックに迎えジャジーなサウンドとなる[1][9]。翌1979年に音楽活動を停止する[1]。 1999年10月25日、過去のアルバム4作品が、SFC音楽出版(現:ウルトラ・ヴァイヴ)から、2枚組CDの2種類という形で再発売される。このCD化の際にライナーノーツ執筆を依頼されたJOJO広重と出会い、音楽活動再開につながる[1]。JOJO広重は、1970年代の高校生時代から佐井好子の音楽を愛聴し[9][10]、「佐井好子こそ最も愛し、重要な影響を受けたアーティスト」「死ぬまで聴きつづけるだろう」と語るほどの大ファンだったが[10][11]、同年9月にインタビューという形で佐井と初めて直接顔を合わせたという[9][10]。
略歴
生い立ち
メジャーデビューから活動停止まで
音楽活動再開
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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