佐久間象山
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 凡例佐久間 象山
写真(国立国会図書館蔵)
時代江戸時代後期
生誕文化8年2月28日1811年3月22日
死没元治元年7月11日1864年8月12日) (53歳没)
改名国忠→啓
別名受領名:修理、:象山、子迪、子明
墓所蓮乗寺
官位正四位
主君真田幸貫
信濃国松代藩
氏族佐久間氏
父母父:佐久間一学、母:まん(農民出身)
妻正室:勝順子(勝海舟の妹)
三浦啓之助
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佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者思想家通称は修理(しゅり)、は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階正四位(1889年)[1]象山神社祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。
家系佐久間象山像(長野)

『真武内伝』を著した竹内軌定によると佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を2度にわたって破った名将として名高い村上義清に8,000石で仕えた佐久間大学という。大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩3万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて250石を食んだ。その後、信政が真田信之の世継として松代藩を継いだため、国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて100石を食んだ[注 1]。この国品が佐久間家中興の祖とされている。

しかし佐久間象山が自ら著した『佐久間氏略譜』によると家系は桓武平氏であり、桓武天皇の曾孫である高望王の末裔に佐久間家村がいた(安房国佐久間荘に居住したことから佐久間を姓にしたという)。家村には子がなく同族の和田朝盛を養子に迎えた。その朝盛から13代目の孫が佐久間盛次であり、その盛次の長男が尾張国戦国大名として有名な織田信長に仕えた盛政である。盛次の4男で盛政の実弟である勝之は信濃長沼藩で1万3,000石を領したが罪を得て改易された。この勝之の家臣に岩間又兵衛清重という400石取りがいて勇気も才能もあったので勝之の兄である安政の娘婿になった。しかし清重には男子がなかったため、鶴田清右衛門の子の与作を養子に迎え、その孫が前述した佐久間国品にあたるという[3]。だが国品に男子がなかったため、林覚左衛門の子の幾弥を婿養子に迎えた。だが、その子の岩之進が夭折したため佐久間家は改易された。しかし松代藩は国品の長年の功績を評価して国品の甥である村上彦九郎の息子である彦兵衛国正を養子にして家名を再興させ5人扶持とした(のちに5両5人扶持)。しかし国正にも子がなく、松代藩士であった長谷川千助善員の次男である佐久間一学国善を養子にして家督を継がせた。この国善が佐久間象山の実父である[4]

このように『真武内伝』と『佐久間氏略譜』では家系やその経歴が大いに異なりどちらを信ずべきかは不明である。佐久間家の菩提所を調査した大平喜間太は国品以前の墓所が一基もないことから国品以前の家系には多くの疑問があり信を置くに足らないとしている[5]

象山の父・国善の父である長谷川善員は斎藤仁左衛門の次男であり、この斎藤家は越後国上杉謙信に仕えて「越後の鍾馗」と謳われた斎藤朝信を祖としており、象山の書状によると国善は朝信から数えて6代の孫であり、象山は7代目の孫であると称している[注 2]
生涯
幼少期

文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる[注 3]

前述したように佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘でまんといい、国善の妾に当たる。象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという[8]

門下生だった久保茂によると、象山は5尺7寸から8寸(約175p)くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯(けいけい)と輝きあたかもの眼のようであった[9]ため子供のころはテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。
学者への道、そして 仕官 - 国元での活動

象山の烏帽子親は窪田岩右衛門馬陵恒久という郷里の大先輩で藩儒を務め、象山の才能を高く評価した人物である[注 4]

1824年、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、1826年、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門して経書を学んだ。また同年、藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を「詳証術」と称したという。また水練を河野左盛から学んだ。この中で最も象山に影響を与えたのは鎌原桐山だったという[11]

文政11年(1828年)、家督を継いだ[12]天保2年(1831年)3月に藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の父に対して孝養ができないとして5月に辞任している[13]。しかし幸貫は象山の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。20歳の時、象山は漢文100篇を作って鎌原桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。

天保3年(1832年)4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸貫から閉門を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにもかかわらず、象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである[14]。この閉門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した。国善はその5日後に死去している。
江戸出府と兵学家の地位確立

天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び[15]山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。

天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫老中兼任で海防掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争 (1840 - 42) での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することとなり、魏源『海国図志』などを元に『海防八策』を上書、さらにこれを機に蘭学の修得の必要に目覚め、弘化元年(1844年)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。


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