凡例佐久間 勝之
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕永禄11年(1568年)
死没寛永11年11月12日(1634年12月31日)
改名柴田勝之→佐々勝之→佐久間勝之
別名源六、源六郎(通称)
戒名勝之院殿?岩成?大居士→玉鳳院殿泰山正安大居士
墓所静岡県静岡市葵区研屋町の顕光院
官位従五位下、大膳亮
幕府江戸幕府 駿府城加番
主君織田信長→柴田勝家→佐々成政→北条氏政→蒲生氏郷→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩常陸北条藩主→信濃長沼藩主
氏族佐久間氏→柴田氏→佐々氏→佐久間氏
父母父:佐久間盛次、母:柴田勝家の妹[1]
養父:柴田勝家、佐々成政
兄弟盛政、安政、勝政、勝之
妻正室:佐々成政の娘
継室:庄野式部
佐久間 勝之(さくま かつゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。常陸北条藩主、信濃長沼藩初代藩主。 永禄11年(1568年)、織田氏の家臣・佐久間盛次の四男として生まれる。 天正10年(1582年)、信濃国高遠城攻めに初陣し功名をあげた。はじめ叔父・柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り婿養子となった。天正12年(1584年)の末森城の戦いなどに活躍するが、天正13年(1585年)成政が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏すると、妻を離縁し、兄・安政(のちの信濃飯山藩主)と共に関東の後北条氏に仕えた。しかし5年後、豊臣氏によって北条氏が滅ぼされたため、しばらく潜伏していたが、後に遠縁にあたる奥山盛昭を通じて秀吉に召し出された。秀吉は蒲生氏郷への付属を命じた[2]。 以後、兄とともに佐久間姓に復し、奥州仕置により会津を領することになった氏郷に仕え、手ノ子の城(現山形県西置賜郡飯豊町手ノ子)を預かった。『佐久間軍記』によれば、葛西大崎一揆の鎮圧で大いに功績を挙げ、その最中に伊達政宗が氏郷を酒席に招き暗殺しようとしたとき、これを察知した勝之は氏郷を逃がしたといわれている。 氏郷死後は秀吉に呼び返され伏見城で秀吉に仕え、信濃国長沼城を賜ったというが実際には発令されなかったらしい。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五奉行が徳川家康に伺いを立て、長沼のかわりに近江国山路(現滋賀県東近江市山路町)3,000石を与えられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。慶長12年(1607年)江戸城内に居を移す。その際に常陸国北条(現茨城県つくば市北条)3,000石を加増され、合計1万石を領し、大名となった。 慶長20年(1615年)大坂夏の陣では豊臣方の将竹田永翁らを討ち取る手柄を挙げたといい、その戦功[3]により信濃国水内郡(現長野県長野市の東北部、上水内郡飯綱町・信濃町の一部)の内と近江国高嶋郡(現滋賀県高島市)の内に加増され、あらためて長沼城を賜り信濃長沼藩1万8,000石の藩祖となった。
生涯