佐々部晩穂
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佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本実業家。元中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。
略歴
旧制一高・京都帝大から日銀へ

福岡県山門郡塩塚村で医者だった父・田尻常太郎(福岡県士族)の息子に生まれる[1]1914年大正3年)旧制一高を卒業して、京都帝国大学(現京都大学)に進学、同期の卒業生には汐見三郎、高山義三岸要酒井忠正、森本寛三郎がいた[2]。京都帝国大学を首席(恩賜の銀時計組)で卒業後[3]1918年(大正7年)に日本銀行へ入行する。日銀の同期には一万田尚登がいた[4]。営業局を経て、のちに日銀総裁となる結城豊太郎が支店長を務める大阪支店、ロンドン支店などで勤務する。株式局時代は日銀が保管していた勧業債券を日本勧業銀行へ移管した[5]
伊藤財閥入り、中部財界の指導者へ

大学卒業前に恩師の小川郷太郎教授から縁談が持ち込まれ、三重県の旧家である佐々部家の婿養子となっていたが[6]、佐々部家の縁戚で媒酌人を務めた伊藤財閥当主である15代・伊藤次郎左衞門から懇望されて、1936年昭和11年)7月、伊藤銀行(旧東海銀行の前身行、現三菱UFJ銀行)の副頭取松坂屋(現J.フロント リテイリング大丸松坂屋百貨店)監査役に就任し、伊藤銀行の実質的な経営者となる[7]

1938年昭和13年)12月には半田市中埜銀行1939年昭和14年)11月に内海町知多銀行の営業権を譲り受けて業務を拡張する。国家総動員法公布日独伊三国同盟が成立して戦時統制の色が濃くなり、大蔵省の「一県一行主義」の方針に従い、1941年(昭和16年)6月、伊藤銀行と愛知銀行名古屋銀行の3行が新設合併して東海銀行を誕生させた[8]。東海銀行の設立は軍部の圧力でできたものとみる向きが多いが、具体的に推進したのは将来の名古屋の産業発展のために過当競争を避け、経営の合理化を進めて資金コストを下げるために、基盤の強固な本店銀行が名古屋に必要だという佐々部の信念だった[9]

1948年(昭和23年)、松坂屋の副社長に就任し、伊藤財閥が財閥解体を免れるよう占領軍に英文の説明資料を何度も提出して説明するなど東奔西走した。財閥解体を免れると、戦争で被災した名古屋店、銀座店、静岡店の応急復旧工事に取りかかり、当時の資金統制令で百貨店が「丙種」に指定されていた状況下で復旧資金の確保に奔走、松坂屋の復興に邁進した[10]

中部日本新聞名古屋商工会議所の三輪常次郎会頭が一体となり、1949年(昭和24年)12月に中部日本放送(CBC)創立準備委員会を設置すると、病気辞任した三輪常次郎の後任として名古屋商工会議所会頭、中部日本放送発起人総代に就任した16代・伊藤次郎左衞門の推薦により、佐々部は中部日本放送社長の初代社長に就任、1951年(昭和26年)9月1日、日本初の民間放送開局に漕ぎつけた[11]


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