佐々紅華
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佐々 紅華
さっさ こうか
満62歳ころ(1948年)
基本情報
出生名佐々 一郎 (さっさ いちろう)
生誕1886年7月15日
出身地 日本 東京府東京市下谷区根岸
死没 (1961-01-18) 1961年1月18日(74歳没)
学歴東京高等工業学校工業図案科卒業
ジャンル歌謡曲
職業作曲家作詞家グラフィックデザイナー
レーベル日本コロムビア
日本ビクター
共同作業者二村定一

佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は、日本の作曲家である[1][2][3]。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)[1][2]作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き[2]グラフィックデザイナーでもあった。
人物・来歴

1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれた[1][2]。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学工業図案科に進学した[1][2][3]。同校の工業図案科は、1914年(大正3年)に廃止され、空白期ののち1921年(大正10年)に創立された東京高等工芸学校を経て、現在の千葉大学工学部デザイン学科に引き継がれた学科である[4]。小学校時代からの音楽好きが嵩じてはじめは東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を受験したが、試験には受かったものの父親の意見で高工に行ったのだという。しかし、この時期の自身について紅華が晩年に地元紙に書いた、七代目松本幸四郎(1870年 - 1949年)についての記事がある。高麗屋松本幸四郎の別荘が寄居の雀宮公園にあったという話はもうひとつの語り草に終わっているようだ。私は蔵前の学生時分当時(明治42、3年頃)ワグネルソサイティに集まる慶応ボーイなどと共に幸四郎がまだ高麗蔵と言っていた頃のこと、ハイカラハンサムだった彼の演ずる珍妙な和製オペラの助演歌手として歌舞伎座へ25日ぶっ通しで通いつめたそれが奇縁で幸四郎マニアになって今でも私の床の間には八代目団十郎に扮した幸四郎の隅押し(芝居の面写)が懸けてあるが、その落款には大正甲寅9月於帝劇七代目松本幸四郎雀亭、と印してある。 ? 『埼北新聞』昭和27年1月佐々による図案。日本蓄音器商会新聞広告(東京朝日新聞、1910年11月13日付)。

高工を卒業すると東京市内の印刷会社に就職、音楽への思いを断ち切れずにいたが、次に務めた日本蓄音器商会(ニッポノホン、現在の日本コロムビア)では図案室に入り、当時ビクターの商標であった、犬が蓄音器に耳を傾ける図案(ニッパー)に対抗し、耳に手をかざして蓄音器に聞き入る大仏のマークを作成、当時「大仏はそんなに耳が遠いのか」との評判が立ったという。これは日本蓄音器商会の商標となった。またレコードのポスター等のグラフィックデザイナーとしても頭角を現していった。音楽の面では、当時の雑誌の記事などを見ると、日本蓄音器商会の事務所を覗くと、ひたすら洋楽のレコードを聞きながら五線紙に写取る、紅華の姿が見て取れたという。

1913年(大正2年)には「茶目子の一日」「目無し達磨」「毬ちゃんの絵本」などの御伽歌劇の作詞・作曲をして、当時の山の手の上流階級に蓄音器を売ろうともくろんだ「童謡作家」、その後の1917年(大正6年)10月、石井漠(1886年 - 1962年)らとともに「東京歌劇座」を旗揚げ、自身の手によるミュージカル『カフェーの夜』を浅草公園六区日本館で公演[1]、「浅草オペラ」の嚆矢となる[2][3]。1921年には、同年3月、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)に落成した生駒劇場に「生駒歌劇団」を結成、同年8月に第1回公演を行い、生駒歌劇技芸学校を創設したが、これには失敗し[1]、同年10月には解散した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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