佐々木主浩
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佐々木 主浩第64回阪神大賞典表彰式
2016年3月20日阪神競馬場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地宮城県泉市(現:仙台市泉区
生年月日 (1968-02-22) 1968年2月22日(56歳)
身長
体重190 cm
98 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1989年 ドラフト1位
初出場NPB / 1990年4月7日
MLB / 2000年4月5日
最終出場NPB / 2005年8月9日(引退試合)
MLB / 2003年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


東北高等学校

東北福祉大学

横浜大洋ホエールズ
横浜ベイスターズ
(1990 - 1999)

シアトル・マリナーズ (2000 - 2003)

横浜ベイスターズ (2004 - 2005)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2014年
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

佐々木主浩
人物
国籍 日本
職業野球評論家
YouTube
チャンネル

佐々木主浩チャンネル

活動期間2020年10月26日 -
ジャンル釣り
登録者数1,24万人
総再生回数116,095回
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佐々木 主浩(ささき かづひろ[1]1968年2月22日 - )は、元プロ野球選手投手)。現在は日本プロ野球名球会副理事長、野球解説者野球評論家タレント馬主、レーシングチーム「D'station Racing総監督。右投右打。
概要

日本プロ野球(以下:NPB)・メジャーリーグベースボール(以下:MLB)で抑え投手として活躍。日本人選手として最多となるMLB通算129セーブ、NPB時代だけで歴代3位となる252セーブを記録するなどNPB/MLB通算で381セーブ(日本人史上初の通算300セーブ)を記録し、抑え投手として一時代を築いた。またMLBでアジア人史上2人目(日本人史上2人目)の新人王を受賞している。愛称は「大魔神」(MLBでも "Daimajin" という異名で呼ばれた)。ベイスターズ在籍時は「ハマの大魔神」と呼ばれたこともあった。

NPBシーズン&通算最多セーブポイント記録保持者(現在はセーブポイント制度が廃止されたため旧公式記録となっている)であり、日本プロ野球名球会初のセーブ数による入会者である。NPB最多タイ記録となる最優秀救援投手(現在の最多セーブ投手)を5回獲得している。

妻は榎本加奈子
経歴
プロ入り前

宮城県仙台市に生まれ、小学2年の時に泉市(現:仙台市泉区)の将監西小学校へ転校する[2]。小学4年の時に地元の少年野球チーム「将監アタックス」で野球を始めた[2]。4番でエースを務め、のびのび野球を通じて野球の楽しさを体感した[3]泉市立将監中学校では野球部に所属し、エースピッチャーがいたため主に野手として試合に出場[4]竹田利秋監督のスカウトがきっかけとなり、反対する周囲を説得して東北高等学校に進学した[5]。竹田は佐々木について、高校時代から故障の多い投手ではあったが、克服する精神力も強かったと述べている[6]

東北高校では2年の夏からエースとして3季連続甲子園大会に出場し、3年生だった1985年にはとも甲子園でベスト8に進出した[6]。東北高校の同級生、チームメイトに葛西稔がいる。また、高校時代に親しかった同級生の2つ年下の弟は斎藤隆で、昔からの顔見知りであった。斎藤とは高校・大学・日本プロ野球で同じチームに所属することとなった。同年のドラフト会議では、夏の甲子園で優勝したPL学園高校の「KKコンビ」(桑田真澄清原和博)や、同じく甲子園に出場した中山裕章高知商業高校)がそれぞれドラフト1位で指名された一方、佐々木は故障がちだったことと、肩に担いで力任せに叩きつけるような投げ方(いわゆる「手投げ」)が各球団のスカウトから敬遠され、ドラフト指名を受けることはなかった[6]

高校卒業後は東京の大学へ進学することも考えたが、東京で遊びに走ることを憂慮した竹田監督の勧めで地元の東北福祉大学へ進学した[7]。大学進学後は慢性的な故障に悩まされて腰の手術を受けるなど苦しい日々を過ごしていたが、最高球速140 km/h台後半の速球とフォークボール横浜大洋ホエールズのスカウトの目に留まり、後にドラフト1位指名を受けるに至った[6]。高校3年のころから佐々木に注目していたスポーツライターの樋口浩一は、高校時代にプロのスカウトから敬遠される原因となった叩きつけるような佐々木の投げ方が、フォークボールには適していたと述べている[6]

当時の東北福祉大野球部は黄金期を迎えていて、佐々木の東北福祉大学時代は1987年と1988年の全日本大学野球選手権大会で2度準優勝(2年・3年時)している。大学野球部の同僚には1学年上の上岡良一、同期の大塚光二(本名: 大塚孝二)、1学年下の矢野輝弘、2学年下の金本知憲(1浪入学)・浜名千広・斎藤隆らがいた。また大学在学中には高校野球の指導者になるため[7]に教員資格を取得している[8]

巨人ファンだったが、1989年ドラフト会議前には巨人だけが調査に来なかったため、それ以来巨人への敵意を抱くようになった[9]。結果、横浜大洋ホエールズが1位指名で交渉権を獲得。大学時代は故障続きで腰の手術を受けたこともあって、「大塚君(同東北福祉大から西武ライオンズに3位指名の大塚孝二)はいいなあ。僕は欠陥商品ですから。」と発言し、プロ入りを拒否していたが、球団から説得され入団[10]。東北福祉大から初めてのドラフト1位指名を受けた選手となった[11]。契約金は6000万円、年俸は600万円(金額は推定)[12]。背番号22は2月22日午後2時22分生まれに由来するといわれ、ルーキーイヤーの春季キャンプを扱ったスポーツニュースでは「平成2年2月22日に22歳の誕生日を迎えた背番号22の佐々木投手」という特集も組まれたこともある。また市外局番の「022…」が宮城県に割り振られていることにも言及し、「宮城県出身の私にとってもうれしい」と自著で触れている。以後日米のキャリアを通じて背番号22を着け続けた[注 1][注 2]
大洋・横浜時代

入団当時の監督、須藤豊は「チームで最もいい投手が抑えを務めるべきである」という考えから、看板投手の遠藤一彦を抑えに起用していたため、1年目の1990年は16試合に登板したが、先発でも7試合に登板した(記念すべき仙台での初先発の相手投手は山本昌であり、中日が勝利している[13])。同年は2勝4敗2セーブ、防御率5.85の成績で終わった。また、同年6月の対広島東洋カープ戦で二塁上で相手野手と交錯して右足首を痛め、3か月の戦線離脱も経験した[6]

1991年は1試合のみ先発で起用されたが[6]、先発としては腰と肘に不安があったことや[6]、中盤に球威が落ちることから、スタミナ面で課題が残る投手であった。しかし、遠藤の故障離脱により抑えに抜擢された所、安定した成績を収め定着。それ以降は救援に完全に転向し[6]、速球と落差のあるフォークボールを武器に高い奪三振率を記録。8月28日の対広島戦では9回、見逃し5球、空振り4球、ファウルなしの「三者連続3球三振」を達成している。同年は58試合に登板して117イニング(規定投球回数は130イニング)を投げ、6勝9敗17セーブ、防御率2.00の好成績を残した。シーズン終盤には小谷正勝コーチから「先発で2試合ぐらいいけるだろう」と最優秀防御率のタイトルを狙うよう提案され、須藤監督に直談判したが断られた。尚、同タイトルは広島の佐々岡真司が2.44で獲得した。

1992年は開幕から1年間ストッパーを務め初タイトルである最優秀救援投手に輝く。また、この年は中継ぎの盛田幸妃から佐々木への継投リレーが確立された。

球団名が「横浜ベイスターズ」に変わった1993年は夏場に故障した影響で38試合で3勝6敗20セーブ、防御率3.27と今一つの成績で終わった。同年オフの契約更改の席で200万円ダウンの年俸5300万円を提示されたことに怒りの態度を見せ、トレード直訴、各球団争奪戦かと報じられた[14]。一時は福岡ダイエーホークス有力とも言われ[15]、横浜も最初は引き留める姿勢を見せていなかったが[14]、後に「絶対出さない」という態度に転じ[16]、球団によってトレード交渉当面凍結という宣言が出され[17]、また当時の監督の近藤昭仁の説得もあって[17]結局は残留という形で決着した[注 3]

1994年は2月に右肘遊離軟骨除去手術を受け[6]、前半戦を棒に振る。その間は抑え投手の座を盛田に譲った。復帰は秋ごろと見込まれていたが、オールスターゲーム前に復帰し[6]、それ以降は再び抑えになり、9月18日の広島戦で7者連続三振を記録している。この当時、サンケイスポーツ読売ジャイアンツ(巨人)担当記者が佐々木を(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」と表現する[注 4]。また、佐々木の風貌が大映の劇中のキャラクター、「大魔神」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名が定着した[注 5]

1995年は抑えとして完全復活を遂げ、自身初となる30セーブ越え、防御率1点台を記録し、3年ぶりに最優秀救援投手を獲得する。同年以降、4年連続で最優秀救援投手を獲得した[6]。7月8日の対ヤクルト戦では史上最速となる通算500奪三振を達成。地元・横浜で開催されたオールスターにファン投票で選出され、先発登板。パ・リーグ先頭打者のイチローとの対決が話題となった。オフには横浜生え抜き投手として初の1億円プレイヤーとなる。同年には同い年の野茂英雄がMLBで活躍していたが、当時の佐々木本人は「米国に興味はない」と口にしていた[6]

1996年も2年連続となる最優秀救援投手を獲得。しかし、この年のシーズンオフに球団が有働勝次を解雇したことに怒り、メジャー・リーグへの移籍を示唆する。また、シーズンオフには自主トレーニング先のサイパン島で不祥事を起こした。


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