この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年9月)
凡例佐々 成政
佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文5年1月15日(1536年2月6日)?
永正9年(1512年)、永正13年(1516年)、天文8年(1539年)説あり
死没天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
別名内蔵助(通称)
戒名成政寺庭月道閑大居士
墓所兵庫県尼崎市法園寺
京都市上京区慈眼寺
佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子[1]。通称は内蔵助。家紋は棕櫚(シュロ)。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。とやま城郭カードNo.95(富山ゆかりの武将カード)[2][3]。 佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)を拠点とした土豪で、元々は織田信安に属していたとされる(『武功夜話』)。佐々氏は宇多源氏近江佐々木氏の庶流で、尾張国に移り斯波氏の、ついで織田氏の家臣になったと思われる。そのほかに上総国佐々庄から尾張に移ったとする説、藤原氏出身説、菅原姓を名乗ったとする説がある[4]。 天文19年(1550年)、織田信長に仕える(『尾張佐々系譜』)[5]。兄に政次、孫介がいたが、成宗の次男・孫介が弘治2年8月24日(1556年9月27日)の稲生の戦いに武者大将として出陣し奮戦するも29歳で討死、長男・政次も永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで討死にするなど兄弟が相次いで亡くなったため、永禄3年(1560年)に父・成宗から家督を継ぎ、比良城主となる。25歳であった[6]。 永禄4年(1561年)、森部の戦い(稲葉山城の戦いを参照)で敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てる(『信長公記』)。 永禄10年(1567年)、成政は黒母衣衆の10人の筆頭となった[7]。信長の場合は、黒・赤それぞれ10人という切れのよい数にしていたあたり、馬廻・小姓の中で武功の優れた者を選抜したと考えられる。黒母衣衆は馬廻から、赤母衣衆は小姓衆から選ばれたようである[8]。 永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて6万の兵で上洛の途についた。この上洛の途、近江で起こった観音寺城の戦いでは、六角義賢の蓑作城、観音寺城を攻略し、9月28日、京に入った。そこには成政の姿もあった[9]。 永禄12年(1569年)、信長が伊勢国の北畠具教の大河内城を攻めた際に、柴田勝家・森可成・不破光治と共に城の東側を攻める部隊を率いている(『信長公記』)。 元亀元年(1570年)6月、姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正、中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』『当代記』) 。 天正2年(1574年)、長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、前田利家らと3000人の鉄砲隊を指揮した[10]。 ただし、この時期(越前国入国以前)の成政の活動によっては、『信長公記』を出典とするものがほとんどで、その経歴や実績については不明点が多い[11]。 天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。越前12郡のうち8郡は柴田勝家、府中近辺の2郡は成政、前田利家、不破光治の3人(府中三人衆)に与えられた。
出自
生涯
尾張時代
府中三人衆時代佐々成政の馬印