住吉踊り(または住吉踊。すみよしおどり)は、大阪の住吉大社の御田植神事に行われる住吉の御田植の踊り。戦国時代のころから住吉神宮寺の僧が京阪の各町村を廻って勧進したことから有名になり[1]、江戸時代には乞食坊主の願人坊主らが大道芸として全国に流布し、かっぽれ・万作踊りなどに影響を与えた。かっぽれなどを住吉踊りと称することもあるが、大道芸としての住吉踊りは伊勢音頭や豊年踊り、子守り踊りなど民間踊りや俗謡が混在しており、本来の住吉踊りとは異なる。
概略名所江戸百景の「日本橋通一丁目略図」の中に大道芸になった住吉踊りが描かれている。住吉踊りの大きな傘を派手に飾り、その後ろに三味線弾きが従い、数人で門付した。
祭祀としての住吉踊りは、神功皇后が三韓より凱旋の折、泉州七道ヶ濱(現・堺市堺区七道)に上陸したことを祝い、海浜の漁民が天下泰平を謳歌し吉士舞を舞ったのが始まりとされる[2]。中世には農民たちが稲の虫追いや厄払いの意を込めて五穀豊穣を祈った農民舞踊となり、住吉神宮寺(神社に付属する寺)の僧が庶民の安全繁栄を祈った踊りとして京阪諸国を巡歴し、勧進した[2]。
頂上に御幣をつけ、縁に幕を垂らした大傘を立て、手の割り竹で傘の柄を打ちながら一人が音頭取りとして歌い、縁に幕を垂らした菅笠をかぶり、口を白布で隠し、手にうちわを持った4人の踊り手がその周囲を回る(近年は、多数の踊り手で演じられている)[1]。4人の踊り手が「心」の字を表し、中央の音頭取りの一人と足して「必」の字となる[3]。5人が一つの傘の中で唄い踊るのは天地五行を象徴し、衣装にも紅、白、紫、黄、黒の5色を用いる[2]。神仏習合によりもともと僧が踊って勧進したことから、踊り手の衣裳も僧服を模している。傘は仏法の天蓋を表し、この世界に住む誰もが心を本とし、神仏が傘下を守るという意味でもある[2]。歌詞は神へ豊作を願う内容で[1]、音頭の掛声「イヤホエ」は「陰陽穂栄」を転訛したものと言われる[2]。
廃仏毀釈により明治4年に住吉神宮寺が廃寺になったため一度途絶えたが、約50年後の大正10年(1921年)に地元の有志が伊勢神宮参拝団「楽正会」を結成し、絶えてしまっていた踊りを古い資料などに当たって復興させ、住吉大社の御田植神事の奉納踊りとして復活した[3]。 大道芸としての住吉踊りは、住吉神宮寺の僧徒が始めた勧進の踊りを京阪の願人坊主らが物乞いのために学び、俗信を唱えて大傘の柄を叩いて歌い踊って金銭を得ていたが、次第に滑稽な歌や踊り、芝居の振り真似なども加えて見世物化していき、それが江戸から諸国に伝わっていったとされる[4]。古書の記述によると、正徳年間の1710年代にはすでに「住吉神社とは関係なく、大阪長町(現・大阪市中央区日本橋筋と浪速区日本橋[5])の非人らが傘と菅笠に赤い布をつけてお祓いの初穂料の名目で物乞いを始めたもの」とあり、その後人寄せのために見世物色を強めていき、名古屋では19世紀前半の文政ころから義太夫や豊後節 古今亭志ん朝が八代目雷門助六から習い、寄席芸としての住吉踊りを復活させた。浅草演芸ホールでは毎年8月中席(11-20日)昼の部の興行で芸人による「納涼住吉踊り」が大喜利として行われる。この興行は落語協会の主催であるが、前身の東宝名人会で協会の区別なく顔付けされていたことに鑑み、落語芸術協会や講談協会などの他会員も参加するなど、江戸の定席では唯一協会の区別を問わない顔付けとなっている。志ん朝の死去以降は4代目三遊亭金馬(のちの2代目金翁)、金原亭駒三がそれぞれ座長を引き継ぎ、2019年より古今亭志ん彌が座長を務める。 浅草以外でも不定期に定席の大喜利として行われることがある。
大道芸の住吉踊り
寄席芸の住吉踊り