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出典検索?: "住吉神社" 東京都中央区
住吉神社
鳥居と拝殿
所在地東京都中央区佃一丁目1-14[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分4.7秒 東経139度46分59.9秒 / 北緯35.667972度 東経139.783306度 / 35.667972; 139.783306 (住吉神社 (東京都中央区))座標: 北緯35度40分4.7秒 東経139度46分59.9秒 / 北緯35.667972度 東経139.783306度 / 35.667972; 139.783306 (住吉神社 (東京都中央区))
主祭神住吉三神、息長足姫命、東照御親命
社格等旧郷社
創建正保3年6月29日(1646年8月10日)
札所等下町八福神
例祭例大祭(8月6日[1])
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}住吉神社
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歌川広重『名所江戸百景』の内「佃しま住吉乃祭(佃島住吉の祭)」
幕末期の、当時はまだ行われていた海中渡御の様子。手前の幟は「住吉大明神」と読める。住吉神社の八角神輿陶製の扁額に見える、有栖川宮幟仁親王の筆になる文字
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、日本の東京都中央区佃にある神社である。旧社格は郷社[2]。
祭神
祭神は次の5柱[2]。
主祭神
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
以上の3柱は「住吉三神」と総称される。
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
東照御親命(おずまてるみおやのみこと)
由緒※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦。
天正年間(1573- 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の陣の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。
天正18年8月1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。 元禄7年(1694年)には、佃嶋(現・佃一丁目)に居住する男子からなる講組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって近現代に及ぶ。 明治時代には、月島と新佃島、昭和時代には晴海と豊海が埋め立てられ、また、人足寄場や監獄として利用されていた石川島(別称:森島、鎧島)が、明治29年(1896年)5月に監獄移転に伴って工業・居住の地となり、これらを含めた全島が氏子中に編入されていった。 昭和22年(1947年)には、講組織「佃嶋氏子中」が「佃住吉講」と改称し、各町会・連合睦会と協力して、3年に一度の例祭(神幸祭)を執り行うようになる。獅子頭宮出し、宮神輿宮出し、古から行われていた神輿の海中渡御
概要
御旅所が勝どき四丁目(最初の所在地は勝どき二丁目)に、分社が江東区牡丹町(旧・佃町)と晴海にある。
境内の鳥居に格式高く飾られている陶製の扁額に見える文字は有栖川宮幟仁親王の筆による[4][5]。