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住吉三神(すみよしさんじん)は、神道で信仰される神である。 『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される3神の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。—古事記審神者曰「今不答而更後有言乎。」則對曰「於 日向國 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」—日本書紀 「住吉」は、元は「すみのえ」(墨江)と読んだ[1]。 かつての神仏習合の思想では、それぞれ薬師如来(底筒之男神)、阿弥陀如来(中筒之男神)、大日如来(上筒之男神)を本地とすると考えられた。[2] 伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。 日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を得た。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという。 『土佐日記』(10世紀中頃成立)における記述(「住吉の明神」の項)として、船旅の際、突風を起こして進めなくし、番頭が客に対して、住吉明神が何かを欲しがっているといって幣を奉納させるが、波は荒れ、弊では満足できていないため、もっと喜ぶような品を奉納しなさいといわれたため、鏡を海に奉納すると、たちまち海は鏡面のように静まったとされ、欲しがりな神として描かれている。「ちぶりの神」の項では、海賊が追いかけてくると聞き、番頭に命じて幣を落とさせ、幣が散った方=海神に手向けた方角に舟を漕ぎ、海神を祀る場面が見られる。 住吉三神を祀る神社は住吉神社などという社名で、日本全国に約600社ある。その内、4社が近代社格制度において官社 (国幣中社、官幣小社、官幣中社、官幣大社) に列格されている。(おおまかにいって、西から東に広まっていったと推定される。)
概要
誕生
住吉三神と神功皇后
土佐日記における記述
住吉三神を祀る主な神社
最古の住吉神社(三韓征伐に由来)
住吉神社(長崎県壱岐市)
三大住吉 三韓征伐に由来する神社
住吉神社(福岡市博多区)・ 住吉神社(山口県下関市)・ 住吉大社(大阪市住吉区)
三大住吉以外で三韓征伐に由来する神社
風浪宮(福岡県大川市)・ 本住吉神社(神戸市東灘区住吉宮町)
三韓征伐に由来する神社から勧進された神社
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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