住友金属野球団チーム名(通称)住友金属、住金
加盟団体日本野球連盟
加盟区分企業チーム
創部1951年
廃部1999年
チーム名の遍歴
住友金属 (1951 - 1999)
本拠地自治体
大阪府大阪市 (1951 - 1964)
和歌山県和歌山市 (1965 - 1999)
練習グラウンド住友金属グラウンド
都市対抗野球大会
出場回数21回
最近の出場1995年
最高成績優勝
日本産業対抗野球大会
出場回数5回
最近の出場1972年
最高成績ベスト8
社会人野球日本選手権大会
出場回数18回
最近の出場1999年
最高成績優勝
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数※出場資格なし
住友金属野球団(すみともきんぞくやきゅうだん)は、和歌山県和歌山市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。1999年シーズン終了後に解散した。
獲得した全国タイトルは、全国社会人チームでENEOS・東芝に次ぎ、史上第3位の計9回(全日本アマチュア王座決定戦優勝1回・都市対抗優勝1回・日本選手権優勝7回)である。日本選手権での優勝7回は、史上最多である。 1951年に、それまで住友金属工業の近畿地方における各事業所で活動していた野球チームを統合し、大阪府大阪市を本拠地に本社運営の『住友金属野球団』が創設された[1]。 1955年には早くも都市対抗野球への出場を果たし、1965年には拠点を和歌山製鉄所のある和歌山市に移転した[1]。同年と翌1966年の都市対抗では2年連続準優勝し、1977年には日本選手権で初優勝を果たしている。1981年から1987年までは1982年の大会での優勝を含め7年連続本大会に出場し、1983年と1984年には日本選手権を連覇するなど、石井毅と嶋田宗彦のバッテリーを擁して黄金時代を築き上げ、会社のシンボル的役割を担った[2]。 激戦の関西地方にあって日本生命や大阪ガスに人気で勝てず、プロ入りを目指す学生などは集まりにくかったものの[3]、無名選手の集団が猛練習を重ねて前評判を覆す活躍を見せて観客を魅了した[4]。 1980年代から1990年代にかけて日本選手権を5回制するなど社会人野球で屈指の成績を残している。都市対抗では優勝1回にとどまる一方で日本選手権においては抜群の戦績を残すため「秋の住金」の異名をとった。 1999年5月、母体の住友金属工業がリストラの一環として同年シーズン限りでの活動終了を発表[1]。同年の日本選手権をもって活動を終え、25人の部員の内6人が鹿島野球部に異動、5人が他の企業チームに移籍している[4]。 2004年にはグラウンドを含む住友金属総合スポーツセンターがオークワに売却され[5]、ガーデンパーク和歌山となった。
概要
沿革
1951年 - 大阪府大阪市を拠点に、本社運営の『住友金属野球団』として創部。
1955年 - 都市対抗野球に初出場(1回戦敗退)。
1956年 - 第6回日本産業対抗野球大会に初出場(2回戦敗退)。
1965年 - 和歌山県和歌山市に拠点を変更。
1974年 - 日本選手権初出場(第1回大会、初戦敗退)。
1977年 - 日本選手権で初優勝。
1979年 - 日本選手権で2回目の優勝。
1982年 - 都市対抗野球で初優勝。
1983年 - 日本選手権で3回目の優勝。
1984年 - 日本選手権で4回目の優勝。
1989年 - 日本選手権で5回目の優勝。
1993年 - 日本選手権で6回目の優勝。
1996年 - 日本選手権で7回目の優勝。
1999年 - 活動終了。
主要大会の出場歴・最高成績
全日本アマチュア野球王座決定戦 - 出場2回、優勝1回(1993年)
都市対抗野球大会 - 出場21回、優勝1回(1982年)
社会人野球日本選手権大会 - 出場18回、優勝7回(1977年、1979年、1983年、1984年、1989年、1993年、1996年)
JABA京都大会 - 優勝1回(1983年)
JABA高砂市長杯争奪大会 - 優勝4回(1975年、1976年、1983年、1986年)
JABA伊勢・松阪大会 - 優勝1回(1963年)
JABA広島大会 - 優勝1回(1980年)
JABA九州大会 - 優勝2回(1966年、1985年)
主な出身プロ野球選手
中野隆夫(投手) - 1954年に高橋ユニオンズに入団
島田雄二(外野手) - 東洋レーヨンに移籍し、1957年に東映フライヤーズに入団
上水流洋(投手) - 1972年ドラフト3位でヤクルトアトムズに入団
林正広(内野手) - 1975年ドラフト4位で近鉄バファローズに入団
森繁和(投手) - 1978年ドラフト1位で西武ライオンズに入団
石井毅(投手) - 1982年ドラフト3位で西武ライオンズに入団
西村博巳(外野手) - 1982年ドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団