住友家
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住友家
.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}住󠄁友家 

当主:17代目住友吉左衞門
始祖:住友忠重
家祖:住友政友
業祖:蘇我理右衛門

住友家(すみともけ、旧字体:住󠄁友家)は、日本氏族住友財閥の創業者一族。



住友家の起源 -始祖・家祖・業祖
始祖

住友の姓は、戦国の末、もともと先祖に順美平内友定という人物がおり、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目にその子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって「住友」の姓を称して室町将軍に仕えて、備中守に任じられたのに始まる。

平家の末裔である戦国武士だった住友家の先祖は、国取り物語の戦国時代を有為転変の歴史を生きる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}室町将軍に仕えた「始祖」・住友忠重の子・頼定は、足利義晴に仕え、頼定の子・定信は刑部承と称した。そして、定信の子・定重は、今川義忠今川義元の祖父)に仕えるが、定重の子・信定の代になり、今川氏が滅んでしまったので、摂津の中川清秀に仕え、入江土佐守と称し、中川十六騎の一人として知られたが、尾崎の陣で戦死してしまう。また入江土佐守(信定)の子・政俊は越前国柴田氏に仕え、若狭守と称し越前丸岡城にあったが、柴田勝家と共に北庄城で滅んでしまった。政俊の子・長行は、徳川家康の子で結城家へ養子入りした結城秀康に用いられるが、住友家の武家歴史はここまでである。戦国の習いとはいえ、武家社会の興亡の激しさと無情を感じたのか長行は、自分の子供たちに武家の世界から足を洗わせた。[要出典]
初代政友・「富士屋」の創業

長行の二男で兄の興兵衛に代わって家督を継いだ小次郎政友は、天正年間に生まれ、涅槃宗 (日本)の開祖、空源にしたがって仏門に入り「文殊院空禅」と称した。宏学達識で涅槃宗の後継者と見られていたが、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されたのを機に野に下り還俗はせず、いずれの宗派にも属さぬ「員外沙弥(いんがいしゃみ)」「員外沙門(いんがいしゃもん)」を称し「佛道」を貫いた。洛中に、書籍と医薬品反魂丹を商う「富士屋」を開き、号を嘉休と称し修道三昧の生活を始めた。これが「町人・住友家」の興りである。政友は商売上の心得を『文殊院旨意書』にまとめたが、これは現在に至るまで住友グループ各社の社是の原型となっている。
住友家の家祖と業祖・「泉屋」の創業

住友家には、住友家の「家祖」と、住友家の事業の「業祖」の2人がいる。嘉休こと住友政友(家祖)には一男一女があり、息子の政以には「富士屋」の跡を継がせ、娘の婿養子に蘇我理右衛門(業祖)の長子理兵衛友以(住友友以)を迎えた。蘇我理右衛門は「泉屋」の家号を用いた銅師で嘉休の姉婿にあたる。また理右衛門は涅槃宗の信徒で空禅(政友)の檀家であり、後に空禅が還俗して「富士屋」を開く際には物心両面でこれを助けた。これが住友家と銅との出会いであった。友以は「泉屋住友家」を興し、古代から難波津住吉津渡辺津など国内流通の中心で当時も水運に適した大阪市へ進出。上町台地よりやや西部の東西横堀川と道頓堀、長堀に囲まれた島之内に大規模な同吹き所を開設。本店や住友家も同地区に移転し住友家の本拠地となる。以後は大阪市に居住し代々銅商を営んだ。政以、友以は忠重から数えて九世にあたる。
南蛮吹き

住友家と精銅とは、切っても切り離せないものがあるが、その端緒となったのは、理右衛門が、天正19年(1591年)、泉州堺浦に来た明人の白水から「南蛮吹き」と称される粗銅から銀を分離する精錬法を学んだことに始まる。当時の日本では、粗銅の中に、金・銀などが含まれていることが知られておらず、また金や銀を分離するその精錬技術も未知のものだった。理右衛門は、明人の白水からその精錬方法を学ぶと、その技術を秘伝としていたが、この「南蛮吹き」のおかげで、住友家は粗銅から銀を取り出して、膨大な利益を上げるようになった。
別子銅山

住友理兵衛友以のにあたる吉左衛門友芳の代には、元禄4年(1691年)に伊予の別子銅山の開堀に着手。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にもわたって住友の重要な事業の柱となった。今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言ってよく、事実、住友家の歴史の中では、この四世吉左衛門友芳をもって、「住友家中興の祖」としている。

明治時代に入ってからは文化事業にも関わり、十五代目吉左衛門友純(ともいと)は大阪府立中之島図書館の建物を寄贈。その子十六代目吉左衛門友成アララギ派の歌人でもあり、斎藤茂吉川田順住友本社の重役でもあった)とも交流があった。

なお、住友家当主が「吉左衛門」を名乗るようになったのは、3代当主住友友信(友以の子)からである。
住友財閥における住友家住友友純

住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降のそれは「君臨すれども統治せず」の立場をとった。財閥本社社長たる歴代吉左衛門の仕事は、究極的には財閥の事実上の最高権力者である住友本社(住友合資会社)総理事の信認に尽きるといってよく、個々の事業に口を差し挟むことはなかった。また、16代目吉左衛門友成の兄弟である寛一・元夫は住友本社の株主ではあったが、本社はもちろん傘下事業の役員にも名を連ねることはなかった。この点では三井家岩崎家と対照的と言える。

この傾向は実は江戸時代から存在していたが(当主が幼少、病弱その他の理由などで、経営に関わらなかったケースが多く、実権はいわゆる「大番頭」が握っていた。)、明治に入ってからは、会社法が整備され、他方で旧・公家徳大寺家出身で実業家としての経験がない友純が当主となり、一層顕著になった。

ただし、三井財閥のように、財閥家族と財閥本社役員及び傘下企業の間に一種の緊張関係があったわけではなかった。吉左衛門を「家長様」と呼んでいたことに象徴されるように、上は総理事から下は一般社員までに至る吉左衛門に対する敬愛の念はすこぶる高く、歴代吉左衛門もまた、一方では文化事業を通じて住友の名を高め、他方では家長・財閥本社社長として企業モラルの引き締めの任に当たっていた。
財閥家族の指定

財閥家族の企業支配力を分散し、人的関係の切断がはかられたのが、財閥家族の指定であり、そして1947年昭和22年)11月に成立した「財閥同族支配力排除法」であった。持株会社整理委員会は、占領軍当局の指令を受けて、財閥家族の範囲を確定する基準を下記のように選択した。
財閥家族姓を名乗る尊卑族三親等およびその家族。([[]] 姻族を含まず。)

所有有価証券、現金、預貯金額計100万円以上。

所有家屋500坪、宅地2、000坪、農地山林50町歩以上。

当該会社発行株数に対し、持株比率10%以上の株式所有者。

企業支配または経営発言力。

以上の基準によって、1947年昭和22年)2月、住友家では以下4名が財閥家族に指定された。

第16代住友吉左衛門

住友寛一

住友義輝

住友元夫

住友家の親族・姻戚関係

ここでは、明治に入ってからの住友家とその親族・姻戚関係について述べる。

明治に入って、住友事業は12代目吉左衛門友親と、その子13代目吉左衛門友忠の下で営まれていたが、1890年(明治23年)に友親、友忠が相次いで亡くなり、男系相続者が途絶してしまう悲運に見舞われる。この時、住友家総理人広瀬宰平と大阪本店支配人伊庭貞剛は、友親の妻・登久に14代目吉左衛門を襲名させる一方、友忠の妹・満寿の婿養子として清華家徳大寺隆麿を迎え、住友家の命脈をつないだ。これが15代目吉左衛門友純で、徳大寺実則西園寺公望の実弟である。実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に入れ替わった。


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