住井すゑ
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1955年

住井 すゑ(すみい すえ、1902年1月7日 - 1997年6月16日)は、奈良県出身の小説家。代表作は『橋のない川[注 1]で、部落差別について取り組んだ。住井 すゑ子名義による著作もある。
来歴・人物

奈良県磯城郡平野村(現在の田原本町)の生まれ。東京府豊多摩郡杉並町(現在の東京都杉並区)在住を経て、1935年に夫の郷里である茨城県稲敷郡牛久村城中(現在の牛久市城中町)の小川芋銭宅のすぐ近くに転居し、執筆と農作物自給生活の拠点とする[1]。以降60年以上、同所に居住。代表作『橋のない川』を初め、多くは農村で執筆された。
年表

1902年1月7日、奈良県磯城郡平野村満田の富裕な家庭に生まれる。実家は大和木綿の製造業と農業を営んでいた。幼い頃、被差別部落の草履商からたびたび実家に訪問販売を受け、部落問題と出会った。

田原本技芸女学校在学中に「少女世界」等の雑誌に投稿

1919年?1920年講談社婦人記者

1921年、長編小説『相剋』を出版(住井すゑ子名義)。犬田卯と結婚(婚姻届提出は1923年

1929年、『大地にひらく』読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位当選

1930年?1931年、「無産婦人芸術連盟」機関誌「婦人戦線」に寄稿

1930年、講演「母性は起つ」

1935年、牛久村城中に転居

1940年、『農婦譚』を青梧堂より出版

1941年、『子供の村』を青梧堂より刊行。短編小説集『土の女たち』を青梧堂より刊行

1942年、『子供日本』を青梧堂より刊行

1943年、長編『大地の倫理』を日独書院から刊行。小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話などを執筆。自作がNHK「文芸放送」に採用

1948年、『飛び立つカル』が、三省堂の国語教科書に掲載

1952年、『みかん』で第1回小学館児童文化賞(文学部門)を受賞

1954年、長編『夜あけ朝あけ』を新潮社より刊行。第8回毎日出版文化賞受賞

1958年、長編小説『向い風』を大日本雄弁会講談社から刊行

1959年?1960年、『橋のない川』が部落問題研究所の雑誌「部落」に22回連載

1961年、『橋のない川』第2部を書き下ろし刊行

1963年、『橋のない川』第3部を新潮社より刊行

1964年、『橋のない川』第4部を刊行

1970年、『橋のない川』第5部を刊行

1973年、『橋のない川』第6部を刊行

1978年、自宅敷地内に「抱樸舎」を建てる。長編『野づらは星あかり』を新潮社より刊行

1982年河出書房新社より文を執筆した絵本集を刊行

1992年日本武道館で講演「九十歳の人間宣言 - いまなぜ人権が問われるのか」。聴衆8500人

1992年、『橋のない川』第7部を刊行

1997年、没。享年95。

戦時中の発言

第二次世界大戦中は「農婦われ」「生産の歌」「日の丸少女」「佐久良東雄」「野の旗風」「難きにつく」など数々の軍部賛美の随筆や小説を書き、それらの作品で「戦争はありがたい。戦争は価値の標準を正しくしてくれる。そして、人間の心に等しく豊かさを与えてくれる」「戦争はありがたい。あり余る物によって却って心を貧しくされがちな人間の弱点を追い払って、真に豊かなものを与えようとしていてくれる」「やあ、おめでとう。マニラも陥ちたね、いや、愉快だ。全く、痛快 だ」「無敵皇軍。何がいけない? ははゝゝゝ無敵皇軍を不穏だなんて言った腰抜野郎、今こそ出て来い。神国日本は開闢以来無敵なんだ。それを英米の倣慢野郎に気兼して、無敵皇軍と云っても書いても不可ないなんて、そんなべらぼうな話があるかつてんだ」「いや、めでたい正月だ。マニラが、他愛もなく落ちやがった」

などと書いている。そのとき住井は40歳を過ぎていた。

しかし敗戦後、住井は自らの戦争協力の過去を積極的に偽るようになった。寿岳文章との対談では、次のように語っている。住井 戦争中の十七、八年は私たち童話を書く人間も集められて、「童話は国策に沿って、国のためになるような童話を書け」と言われました。ある時は大蔵省、それから情報局の両方から呼び出されて……結局、命令通りに書かなければ雑誌の紙をくれない、単行本出すにも紙をくれない、といじわるしたからねえ、だから気の弱い人は翼賛会や情報局のいう通りになりましたよ。そういう会合でもそいつらと喧嘩したのはやっぱり私一人でした。

寿岳 やっぱり、住井さんだ。住井 軍の要請に従って、ある時、大蔵省や情報局の役人が、子どもに「お父さん、お母さん、今、お国は大変なんだから早く税金納めてください」と親たちを説得するようなものを書けというんですよ。だから私は、そういう童話は書けません。子どもに収税吏の下働きをさせるような、そんなまねはできません。 そう言ったら怒りましてね、みんなのいる中でさんざん私に悪態つきましたよ。(中略)みんな黙って聞いてました。書けないと突っ張ったのは私一人です。 ? 「時に聴く-反骨対談」 (人文書院、1989年)p121、「住井すゑ作品集」第8巻収録

晩年、戦時中の翼賛発言を櫻本富雄に指摘された住井は「ほほほ…何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」などと放言した[2]

住井の説明によると、これらの翼賛的な文章は、思想犯としてたびたび検挙された夫の罰金を支払うために不本意ながら書いていたものであるという[3]。それに対し前田均(天理大学)は、戦時中の言論弾圧は罰金程度で済むほど甘いものだったのかと疑念を呈している[3]。前田はまた、「いずれにせよ、住井はそれ以前は、他の作家たちの戦争協力の例を挙げる一方で『書けないと突っ張ったのは私一人です』と言っていたが、それが『虚構』であることが櫻本にとって(ママ)明らかにされたわけである」とも評している[3]

櫻本による上掲のインタビューについて、高崎隆治は「佐多稲子をはじめ、林芙美子吉屋信子豊田正子円地文子真杉静枝など」の女性作家にも戦争協力の過去があるのに、なぜ住井だけを槍玉に挙げたのかと詰り、「同質の多数の中から特定の『一人だけ』を標的にするのは」「いじめ以外のなにものでもない」と非難した[4]。これに対して前田は「同質の多数の中から特定の『一人だけ』をかばうのはその意図のあるなしにかかわりなく、神格化以外のなにものでもない」と批判した[5]
抱樸舎

すゑは、牛久城中の自宅敷地内に「抱樸舎」(ほうぼくしゃ)を建て、人間平等思想の学習会を行った。死去後も学習会や命日付近の日曜日にすゑを偲ぶ「野ばらの日」が開催された。現在でも建物は存在し、希望者が見学することは可能である。2006年6月18日には「野ばらの日」が学習会の主催でなく自由参加となり、以後も毎年6月第3日曜日に抱樸舎にて開催される[6]
親族

親族には文化人が多い。

夫:
犬田卯1891年 - 1957年、編集者・農民文学

娘:増田れい子1929年 - 2012年、ジャーナリスト・エッセイスト・毎日新聞論説委員

孫:HATAO画家・詩人

孫の妻:永田萠1949年 - 、絵本作家

著書

『相剋 長編』住井すゑ子 表現社 1921

『農婦譚』住井すゑ子 青梧堂 1940

『子供の村』住井すえ子 青梧堂 1941

『子供日本』住井すゑ子 青梧堂 1942

『土の女たち』住井すゑ 日月書院 1942

『日本地理学の先駆
長久保赤水』住井すゑ子 精華房 1943

『大地の倫理』住井すゑ子 日独書院 1943

『小説佐久良東雄』住井すゑ子 精華房 1943

『夜あけ朝あけ』新潮社 1954 のち文庫

ナイチンゲール』小学館の幼年文庫 1955

『向い風』講談社 1958 のち新潮文庫

『橋のない川』第1-2部 新潮社 1961 のち文庫、以下同

『地の星座』汐文社 1963

『橋のない川 第3部』新潮社 1963

『橋のない川 第4部』新潮社 1964

『橋のない川 第5部』新潮社 1970

『橋のない川 第6部』新潮社 1973

『野づらは星あかり』新潮社 1978 のち文庫

『たなばたさま』滝平二郎絵 河出書房新社(住井すゑとの絵本集)1982

『ピーマン大王』ラヨス・コンドル絵 河出書房新社(住井すゑとの絵本集)1982

『まんげつのはなし』田島征彦絵 河出書房新社(住井すゑとの絵本集)1982

『かっぱのサルマタ』佐野洋子絵 河出書房新社(住井すゑとの絵本集)1983

『空になったかがみ』ハタオ絵 河出書房新社(住井すゑとの絵本集)1983


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