但馬国分寺
本堂
所在地兵庫県豊岡市日高町国分寺734
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度28分20.8秒 東経134度46分23.3秒 / 北緯35.472444度 東経134.773139度 / 35.472444; 134.773139
但馬国分寺(たじまこくぶんじ)は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある浄土宗の寺院。山号は護国山。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、但馬国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である但馬国分寺跡(国の史跡)と、但馬国分尼寺跡(史跡指定なし)についても解説する。 豊岡市南部、円山川の形成する国府平野に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分寺の法燈を継いで再興された寺院である。現在の境内は創建期の国分寺跡と重複し、北方約1キロメートルの地には国分尼寺跡も立地する。また、国分寺跡付近には平安時代以後の国府の遺構と推定される祢布ヶ森遺跡も立地し(平安時代以前の国府の位置は不詳)、一帯は古代の但馬国における中心地であった。 古代国分寺跡については昭和48年(1973年)から発掘調査が実施されており、遺構は平成2年(1990年)に国の史跡に指定されている[1]。数十次を数える発掘調査のうちでは、特に昭和52年(1977年)の第5次調査において全国の国分寺跡では初めてとなる木簡の出土があったこと[2][3]、および平成28年(2016年)の第34次調査においてこれも全国の国分寺跡では初めて主要伽藍以外で回廊が見つかったことが注目される[4]。 創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。『続日本紀』天平勝宝8歳(756年)12月20日条の但馬国ほか25国への聖武天皇一周忌御斎会のための下賜記事から、当時には完成していたと推測される(国分寺以外で御斎会を行なった可能性もある)[3]。考古学的には、国分寺跡の井戸部材の伐採年が763年と判明している[2]。 神護景雲年間(767年から770年)と推定される木簡に、寺の人員配置が記されており、寺の施設・組織の一部が判明している。醤殿、三綱炊屋、朔御倉、西倉、北倉、鋳所、院内、官坐といった部署である[5]。別の木簡からは、朝来4人、出石5、養父5と但馬国内の郡から労働力を徴発していた様子もうかがえる[5]。 宝亀8年(777年)7月14日には「震但馬国国分寺塔」として、塔が落雷被害に遭った旨の記事が見える[3]。貞観4年(862年)には、但馬権守の豊井王から長さ1丈5尺の幡18旗の施入のことがあった[3]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、但馬国の国分寺料として稲2万束があてられている[3]。 全国のほとんどの国分寺は平安時代以降に衰退するが、但馬国分寺の場合にはどのような変遷を辿ったか詳らかではない[1]。 弘安8年(1285年)の『但馬国大田文』では、「国分寺」として記載が見えており、法勝寺末寺で領家は白河中将(白河伊定)であり、寺領は寺田34町20分(歩)で、内訳は寺用田10町8反300分・定田23町1反72分であった[3]。 文書によれば国分寺領は法勝寺を本家として荘園化しており、建武5年(1338年)には光厳上皇の院宣によって「法勝寺領但馬国分寺」が白河中将(白河伊宗)に安堵されたほか、応安4年(1371年)にも白河侍従に安堵された[3]。また、建武5年(1338年)に国分寺の違乱の停止を命じた文書も残る[3]。 観応2年(1351年)には、地頭の伊達朝綱が南北朝の戦いで「国分寺」に参陣した(一説に国分寺城を指すか)[3][1]。明徳2年(1391年)には奈良の西大寺の末寺となっており(前述の法勝寺は1342年以降衰退)[1]、永禄3年(1560年)には国分寺の土地の一部が日光院に寄進された[1]。
概要
歴史
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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