佃_(東京都中央区)
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町丁
大川端リバーシティ21
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分57.02秒 東経139度47分10.89秒 / 北緯35.6658389度 東経139.7863583度 / 35.6658389; 139.7863583
日本
都道府県 東京都
特別区 中央区
地域月島地域
人口(2019年(令和元年)9月1日現在)[1]
 ? 合計14,926人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号104-0051[2]
市外局番03[3]
ナンバープレート品川

佃(つくだ)は、東京都中央区町名である。現行行政地名は一丁目から三丁目。郵便番号は104-0051[2]石川島と佃島 葛飾北斎永代橋 佃 歌川広重
概要

佃は隅田川河口の2つの中州、佃島と石川島から発展した街である。現在は埋立地の拡大により川の河口は3kmほど南西に移動している[4]1990年代には超高層住宅街の先駆けとなった。
歴史
江戸期

佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村大和田村からの34人の入植を契機とし[5]、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村である[6]。佃村漁民の関東での漁労活動は、当時多く見られた近世の畿内漁民の関東進出の一角ともされる[7]

その経緯は、天正14年(1586年)に徳川家康が多田の廟(兵庫県川西市多田神社[8])に参詣する際、大阪の田簑嶋と呼ばれていた地の漁民が神崎川の渡船を務めたことに始まる[9]。家康は恩賞として全国での漁業権と税の免除を認める一方、田も作るよう命じたことから地名を佃に改めたという[9]。天正18年(1590年)8月の家康の関東下向の際には、この地の33人と田蓑嶋神社宮司、平岡正太夫の弟、権太夫好次が当神社から分霊して江戸へ向かい、安藤対馬守、石川大隅守の邸内に一時奉祭した[9]。その後、鉄砲洲を拝領し、大阪と同じ佃と名付けたという[9]。正保3年(1646年)6月29日には住吉四柱大神と徳川家康を祀り住吉神社となった[9]

佃村の漁民たちは自由に漁業を営む権利や[10]年貢免除の特権を獲得し、江戸中期においても隔年で本国と江戸を行き来し御用を務めていたとされる[11]。漁民が移り住んだ地で、古くから佃煮でも有名である[12](佃煮の由来については諸説あり佃煮#歴史を参照)。

一方、中世において隅田中川の河口部に位置していた島(文亀[1501-04]古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)を、1626年、旗本石川八左衛門重次徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称されるようになった[13][14]

現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の佃島と石川島の場所に該当する。
明治期以降

幕末水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、後のIHIの造船所になった。1979年(昭和54年)に操業停止し建物は解体された。旧来の石川島の部分に該当する。

1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層住宅を中心とする大規模再開発「大川端リバーシティ21」の整備が行われた。

個々の高さやデザインを少しずつ変えながらも全体として統一された外観を有し、明石町にある聖路加ガーデンと共に隅田川沿いのスカイラインを形成することになったリバーシティ21への評価は高かった。永代橋から見た景観が、開発主体である三井不動産の広告に度々使用される[15] など、都心部における居住エリア整備の成功事例と認識されていた[16]

現在の佃は再開発された旧石川島のエリアと古い街並みの残る旧佃島のエリアが対照的な景観を作り出している。
町名の変遷

明治時代に南に拡張され、1896年(明治29年)までに、旧来の島部(佃島(現在の佃一丁目および佃二丁目北部))と、明治期における埋立部(新佃島西町(現在の佃二丁目南部)および新佃島東町(現在の佃三丁目))を併せた、現在に至る町域が確立した[17]

旧町名の「佃島」・「新佃島西町」・「新佃島東町」のうち、佃島には丁目がなく、新佃島西町には一丁目から三丁目が、新佃島東町には一丁目・二丁目があった。新佃島西町と新佃島東町は、佃川(現在の新月陸橋の位置)から佃大通りまでの区域が一丁目、佃大通りから現在の八重洲通りまでの区域が二丁目、そして新佃島西町のみ現在の八重洲通りから隅田川派川までの区域が三丁目だった。新佃島西町と新佃島東町の境は、清澄通りだった。

その後、1967年(昭和42年)3月1日の住居表示の実施により、佃一丁目から三丁目が新設された。新町設置に際して、中央区は「佃」の漢字当用漢字に入っていないことを理由に、町名を「津久田」(「つくだ」の読みより)・「津久多」(「つくだ」の読みより)・「住江」(住吉神社より)・「相生」(相生橋より)・「三角」(佃島の形状より)などに変更しようとしたが、地元の町内会を中心として作家や評論家などが反対運動を起こしたことにより、「佃」の漢字の使用を継続することとなった。旧佃島は、現在の八重洲通りから新月陸橋までの区域から現在の中央区立佃島小学校・中央区立佃中学校の敷地の区域およびその他一部区域を除いた部分が佃一丁目とされた。旧佃島のうち佃一丁目とならなかった区域(現在の八重洲通りから隅田川派川までの区域・現在の中央区立佃島小学校と中央区立佃中学校の敷地の区域・その他一部区域)と旧新佃島西町の全域は、佃二丁目とされた。旧新佃島東町は、そのまま全域が佃三丁目となった。
河川・橋・堀

隅田川

中央大橋

佃大橋


隅田川派川

相生橋


佃川支川

住吉小橋

佃小橋

佃堀


朝潮運河

朝潮大橋


陸橋

新月陸橋


世帯数と人口

2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目世帯数人口
佃一丁目1,349世帯2,727人
佃二丁目5,205世帯10,598人
佃三丁目974世帯1,601人
計7,528世帯14,926人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[18]

丁目番地小学校中学校
佃一丁目全域中央区立佃島小学校中央区立佃中学校
佃二丁目全域
佃三丁目全域中央区立月島第一小学校

施設
教育

中央区立佃中学校中央区立佃島小学校

両校は小中一貫校ではないものの、同じ複合校舎内に所在している。


公園

隅田川テラス

佃公園

石川島公園

パリ広場


企業

三井住友建設本社

東京個別指導学院本社

施設

ニュースアートサロン -
共同通信社研修交流センター内(1階は一般開放)

石川島記念病院

観光
名所史跡

住吉神社 - 1646年正保3年)創建。

文化財
東京都指定文化財
佃島盆踊り(念仏踊り)

東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)。1976年(昭和51年)1月16日指定[19]。指定名は「佃島の盆踊」。

毎年7月13日7月14日7月15日に、佃小橋付近で実施される。無縁仏水難による仏の供養が目的であるため、踊る人はまず会場に設けられた仏壇で手を合わせる。音頭を取る人が太鼓に合わせての上で歌い、踊る人はその櫓を輪になって囲んで踊る。

江戸幕府は治安維持政策のために、江戸の中心部ではこの佃島盆踊り(念仏踊り)を唯一の例外として、他で行われていた踊りを禁じた。そのため、東京中心部において江戸時代から現在まで続く唯一の盆踊りである。

文化財の所有者は「佃島盆踊保存会」(保存会)とされ、この会が踊りの継承・伝承の役割を担うとされている。しかし2017年平成29年)11月に、別団体「歴史と伝統を守る佃島盆踊りの会」(盆踊りの会)が地元住民有志によって設立された。保存会と盆踊りの会は対立関係にあり、中央区が仲裁を試みている。2018年(平成30年)のには、両団体が別々に盆踊りを主催したため、同じ場所で2度の盆踊りが開催された。
中央区指定文化財

以下には、佃には関係しているが、所在地が佃ではない文化財が含まれる[20]

5.佃島沽券絵図 控

7.住吉講の獅子頭(龍虎・黒駒)

中央区民文化財

以下には、佃には関係しているが、所在地が佃ではない文化財が含まれる[20]

1.住吉神社水盤舎

4.陶製 住吉神社扁額

8.佃島渡船場跡

12.白魚献上箱

13.住吉神社大祭の獅子頭宮出し

25.板絵着色蘭陵王図額

26.佃浪除稲荷神社の力石

33.木板金地着色蘆鷺図額

52.佃島渡船関係文書

54.住吉神社文書

66.紺糸威丸胴具足 附 具足櫃

69.住吉神社神輿

75.海水館跡

79.佃島沽券絵図 控

交通
鉄道

東京地下鉄有楽町線月島駅 - 出入口が設置されている。


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