伽耶
各種表記
ハングル:??
漢字:伽耶
発音:カヤ
日本語読み:かや
RR式:Gaya
MR式:Kaya
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三国時代の朝鮮半島教科書で一般的な範囲(375年頃)とその他の解釈(4世紀から5世紀頃)
半島西南部の解釈には諸説がある。
伽耶(かや、伽?または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。 414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている[1]。 中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書の南齊書によると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。 720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記される[2]。 中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑』[4]、801年成立の『通典』[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている[6]。 古くは「加羅」表記が一般的であったが、現在の日本ではもっぱら「伽耶」表記が用いられている。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[7]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されていた[7]。 『三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。1世紀中葉に中国正史の『三国志』や『後漢書』で「其(倭国?)の北岸」または「倭の西北端の国」の『狗邪韓国』(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果と見られる[8]。首露王により建国されたとされる「金官国 加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった[9]。532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の加羅諸国を新羅が滅ぼした。 加羅の権力層には倭系の姓を帯びる集団が検出される。浜田耕策は「朝鮮半島からの『渡来人』が古代日本の国家形成に果たした成果を評価する『渡来人』史観は近年注目されている百済や伽耶にも倭人の『渡来人』がいたことが見られるように、この相互の移住民を国家の形成史のなかでどのように評価するかの問題にも発展して新たに考察される課題であろう」と指摘している[10]。 朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着し始めた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。 朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。1世紀中頃になると社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。また、この地域は豊かな鉄産地と海運の良好な条件に恵まれていた。 2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。任那の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚や土坑墓などの遺跡が散在している[11]。
呼称
概要
歴史
辰韓諸国と弁韓諸国
金官国(駕洛国)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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