凡例伴勝雄
時代平安時代初期
生誕宝亀8年(777年)
死没天長8年12月8日(832年1月14日)
官位従四位下、右兵衛督
主君嵯峨天皇→淳和天皇
氏族大伴氏
父母父:大伴弟麻呂
兄弟大伴東人、宇治人、勝雄
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伴 勝雄(とも の かつお)は、平安時代初期の貴族。東宮傅・大伴弟麻呂の子。官位は従四位下・右兵衛督。 弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って、諱を避けて大伴宿禰姓から伴宿禰姓に改姓する。天長元年(824年)従五位上次いで正五位下に叙せられて、陸奥守兼按察使に任ぜられると、天長6年(829年)従四位下・右近衛少将、天長7年(830年)右兵衛督兼讃岐権守と、淳和朝において武官と地方官を務めながら順調に昇進した。天長8年12月8日(832年1月14日)卒去。享年56。 寛容でさっぱりした性格で、隠し事を許さなかった。家風は清廉でほんの僅かな不正も行うことがなかった。地方官として辺境の軍事を統括、あるいは衛府の長として宮中の兵を管轄するなど、才学は乏しかったが、軍事を指揮する能力に秀でていた[1]。 『日本後紀』による。
経歴
人物
官歴
時期不詳:正六位上
弘仁11年(820年) 正月7日:従五位下
弘仁14年(823年) 4月28日:大伴宿禰姓から伴宿禰姓に改姓[2]
天長元年(824年) 正月7日:従五位上。日付不詳:正五位下。日付不詳:陸奥守。日付不詳:兼按察使
時期不詳:正五位上
天長6年(829年) 正月7日:従四位下。2月22日?:右近衛少将[3]
天長7年(830年) 閏12月16日?:右兵衛督[3]。日付不詳:兼讃岐権守
天長8年(831年) 12月8日:卒去
脚注[脚注の使い方]^ 『日本後紀』天長8年12月8日条
^ 『類聚国史』
^ a b 市川久 編『近衛府補任』
参考文献
森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年。
市川久 編『近衛府補任』続群書類従完成会、1992年。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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