伝奇小説(でんきしょうせつ)は、六朝時代の志怪小説が発展し、主に中世中国の唐-宋時代に成立した古典中国文学の短編小説で[1]、唐代伝奇、唐宋伝奇とも呼ぶ。晩唐の作品集である裴? 『伝奇』三巻の題名が一般化して、唐の小説を伝奇と総称するようになったといわれる[2]。また、これらを元にした後代の作品を呼ぶこともある(芥川龍之介「杜子春」など)。また中国の古典的な歌舞演劇である戯曲の形式の1つを伝奇と呼び、明・清時代に隆盛した。 六朝時代(222-589年)の志怪小説では超自然的な怪異譚や逸話を記録として梗概程度に記していた。もともと「小説(とるにたらないものがたり)」的なものだったものが、唐代(618-907年)になると作者の創作した複雑な物語となり、文章も修辞に凝ったものになった。その過程で、志怪小説のころの「怪」を描くことが必ずしも必須の条件ではなく、現実に根ざした、「怪」の登場しない作品群(山中遊郭で妓女と誼を通じるなどの「才子佳人小説」という範疇)もあらわれるようになった。その点で、唐のこれらの伝奇小説は、その後の中国文学における白話小説等のさきがけになった。 古来、論語に「子不語怪力乱神」と述べられた影響が長く残っていたが、唐代にはこの教説への拘泥は薄くなり、詩人の顧況は「不」字を「示」字の見誤りだと主張して「孔子の意は(子不語ではなく)子示語である」と述べ[3]、怪異譚の創作に共感を示した。
成立と発展
六朝志怪から唐宋伝奇へ
初唐
唐代最初期の作品と言われる、王度 (中国語版)(おうど)『古鏡記 (中国語版)
同じく初唐の、張? (中国語版)
安史の乱以後の中唐期(766-835年)の頃には、陳玄祐[7]、沈既済、蒋防(中国語版)[8]、李公佐、陳鴻[9]、白行簡 、元?などによって多くの伝奇小説が書かれた。
陳玄祐 『離魂記(りこんき)[10]』は、離れ離れになった幼馴染の王宙(おうちゅう)と倩娘(せんじょう)が結ばれたが、実は倩娘の魂が体から抜け出していたのだったという話。元の鄭光祖による元曲 『倩女離魂』は『離魂記』に題材を得ている。
沈既済の『枕中記』は、主人公が栄華をきわめるが実はそれが一瞬の夢だったという話で、「邯鄲の枕」の話として著名。
同じ沈既済の 『任氏伝』は、女妖狐が人間の男に尽すという異類婚姻譚である。
許堯佐(中国語版)[11] 『柳氏伝(りゅうしでん、中国語版)』[12] は、貧乏書生の韓翊は親友の李生の下女柳氏を娶るが、安史の乱の際に攫われた柳氏を義侠の士に奪還してもらう話。
李朝威[13] 『柳毅伝(りゅうきでん、中国語版)』[14] は、試験をあきらめた書生が、嫁ぎ先で不遇をかこっていた竜王の娘を助けたことから娘を娶ることになる話。
李景亮 『李章武伝』[15] は、かつて一か月ほど男女の誼を通じた高貴な婦人を、李章武が訪れると婦人は死んでいたが、幽霊となって会いに現れるという話。
蒋防 『霍小玉伝(かくしょうぎょくでん、中国語版)』は、捨てた女の死後の恨みによって不幸な最期を遂げる男の話。明代の湯顕祖による崑劇 『紫釵記(しさいき)』や、さらにこれに基づく連続TVドラマ 『紫釵奇縁(しさいきえん、中国語版)』(2013年、中国)の元になった。