会見郡(あいみぐん)は鳥取県(伯耆国)にあった郡。目次 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、境港市・西伯郡日吉津村・南部町および米子市の大部分(淀江町西原、淀江町福頼、淀江町西尾原、淀江町本宮以東を除く)、西伯郡伯耆町の一部(福岡原および岸本、吉定、上細見、小野以西)にあたる。 『伯耆国風土記 『延喜式』にみえる相見駅は長者屋敷遺跡 広大な郡であったため、確認されるものでも3回の分割が行われた。平安時代末期の同郡内の豪族であった紀成盛は「会東郡主」を自称していたことから東西に分割されていた時期があったものと思われる。 『和名類聚抄』に記される郡内の郷。 このほかにも余戸里、賀茂郷が他の史料などに見える。 神名帳比定社集成 江戸時代には宝暦4年(1754年)、安政5年(1858年)に郡の分割が行われ、前者では東会見・西会見に、後者の分割では口会見・奥会見に分けられた。
1 郡域
2 歴史
2.1 古代
2.1.1 郷
2.1.2 式内社
2.2 中世から近世
2.3 近世以降の沿革
2.4 町村制以降の沿革
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
郡域
歴史
古代
郷
日下郷
細見郷
美濃郷
安曇(あずみ)郷
巨勢(こせ)郷
蚊屋郷
天万(てま)郷
千太(ちた)郷
会見郷
星川郷
鴨部郷
半生(はにゅう)郷
式内社
社名読み格付記社名所在地備考
会見郡
胸形神社ムナカタノ小宗形神社鳥取県米子市宗像
大神山神社オホムワノ
オホカミヤマノ小大神山神社鳥取県米子市尾高伯耆国二宮
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中世から近世
近世以降の沿革
明治初年時点で、概ね全域が因幡鳥取藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている村は以下の通り。●は村内に寺社領が存在。(1町2宿182村)
小波村、平岡村、中間村、●尾高村、福富村、泉村、岡成村、●日下村、福万村、福岡村、石州府村、岸本村、●吉定村、上細見村、河岡村、赤井手村、●上新印村、一部村、高田村、●四日市村、千太村、上豊田村、下豊田村、古川村、吉岡村、東千太村、島田村、津末村、下新印村、今在家村、二本木村、下郷村、●佐陀村、灘村、●日吉津村、今村、今吉村、蚊屋村、熊党村、浦木村、観音寺村、長砂村、車尾村、中河原村、中島村、皆生村、上福原村、西福原村、東福原村、米原村、三柳村、下三柳村、河崎村、上後藤村、大篠津村、和田村、富益村、夜見村、佐斐神村、大崎村、小篠津村、葭津村、新屋村、竹内村、高松村、福定村、中野村、●境村(現・境港市)、上道村、東外江村、西外江村、渡村、森岡村、●粟島村、下粟島村、後藤村、安倍村、●米子町、●大谷村(現・米子市祇園町など)、勝田村、陽田村、●下飯生村、上飯生村、目組村[1]、●陰田村、宗像村、日原村、奥谷村、石井村、奈喜良村、古市村、新山村、今村、大谷村(現・米子市榎原)、橋本村、兼久村、青木村、別所村、岩屋谷村、新庄村、●山市場村、八幡村、●東八幡村、水浜村、遠藤村、吉長村、押口村、殿河内村、大寺村、坂中村、長者原村、小町村、立岩村、小野村、金廻村、鶴田村、上野村、荻名村、宮谷村、小松村、池野村、●御内谷村、井上村、大谷村(現・南部町)、浅井村、宮前村、市場村、馬平村、坪屋村、縄平村、山根村、住吉村、石田村、諸木村、●天万宿、寺内村、清水川村、三崎村、上安曇村、下安曇村、大袋村、境村(現・南部町)、坂根村、谷川村、柏尾村、阿賀村、下阿賀村、●新荘村、●北方村、猪小路村、●原村、西村、鍋倉村、与一谷村、絹屋村、馬場村、徳長村、武信村、道河内村、伐株村、●法勝寺宿、掛相村、馬佐良村、八子村、金崎村、江原村、金山村、二升村、今長村、篠相村、福頼村、落合村、鴨部村、能竹村、賀祥村、信頼村、入蔵村、あごうじ村[2]、赤谷村、定常村、早田村、大河内村、篠畑村、大木屋村、常清村
明治初年 - 千太村が四日市村に、中河原村が車尾村にそれぞれ合併。(1町2宿180村)
明治3年(1870年) - 境村(現・境港市)が上道村の一部(枝郷鼻)を合併のうえ改称して境町となる。(2町2宿179村)
明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により鳥取県の管轄となる。
明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。
明治10年(1877年) - 下記の町村の統合が行われる。(2町2宿146村)
高島村 ← 高田村、島田村
福市村 ← 四日市村、山市場村
古豊千村 ← 上豊田村、下豊田村、古川村、東千太村
両三柳村 ← 三柳村、下三柳村