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会田 雄次人物情報
生誕 (1916-03-05) 1916年3月5日
日本・京都府京都市
死没1997年9月17日(1997-09-17)(81歳)
日本・京都府京都市
出身校京都帝国大学
学問
研究分野歴史学
研究機関神戸経済大学、
学位文学博士
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会田 雄次(あいだ ゆうじ、1916年〈大正5年〉3月5日 - 1997年〈平成9年〉9月17日)は、日本の西洋史学者。京都大学名誉教授[1]。専門はイタリア・ルネサンス。保守派の論客として知られた。 1916年、京都市生まれ。父は、第五高等学校や京都高等工芸学校教授を務めた動物学者・会田龍雄。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進んだ。1940年に大学を卒業し、同大学大学院に進学した。 1942年、京都帝国大学文学部副手に採用される(1948年まで)。1942年から龍谷大学予科講師となった。しかし、戦局の悪化に伴い1943年に応召し、ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍[1]。イギリス軍捕虜となり1947年に復員するまでラングーンに拘留された[1]。この時の捕虜体験を基に書かれたのが『アーロン収容所』(中央公論社)である[1]。 復員後は1947年神戸経済大学(現神戸大学)予科教授、1949年神戸大学文理学部助教授となった。1952年、京都大学人文科学研究所教授に就任。1962年に学位論文『ルネサンスの美術と社会』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1979年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。1997年、京都市内の病院で肺炎のため死去した。享年81。
経歴
出生から太平洋戦争終結まで
戦後
受賞・栄典
1988年:京都市文化功労者。
研究内容・業績
専門はイタリア・ルネサンス研究である。中年以降は日本人論、日本文化論で多くの著作を出し、『日本人の意識構造』ではルース・ベネディクトの日本論を批判した[1]。