会津藩
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若松城

会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた。別名に会藩。藩庁は若松城会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。
歴史
戦国時代会津の基礎を作った蒲生氏郷

戦国時代会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名の蘆名家の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、天正17年(1589年)6月5日に蘆名義広摺上原の戦い伊達政宗に大敗して[1]、義広は実家の常陸佐竹家を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り[2]、政宗は黒川を新たな本拠とした。

天正18年(1590年)7月に小田原征伐北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、8月9日に会津黒川に入って奥州仕置を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した惣無事令違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された[3]。秀吉は仕置において検地や刀狩、寺社政策など諸事を定めて帰洛し[3]、会津には蒲生氏郷が42万石で入部することとなった[4]。後に検地と加増で氏郷は92万石[4]を領有することになる。

氏郷は織田信長にその非凡な才能を評価されて信長の次女・相応院を正室に迎えることを許され、信長没後は秀吉に従い伊勢松坂に12万石の所領を得ていた人物である[5]。秀吉も氏郷の才能を認め、東北の伊達政宗や関東徳川家康を抑える枢要の地に大領を与えて入部させたのである[4]

氏郷は黒川を若松と改め[注釈 1]、故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せ[6]、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、7層の天守を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた[6][注釈 2]

文禄4年(1595年)2月7日に氏郷は死去した[7]。嫡子の蒲生秀行(数え13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫(正清院) を正室に娶わせた[8]。だが蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、慶長3年(1598年)1月、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封した[8][9][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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