七代目会津小鉄会代紋“大ひょうたん”[1]
設立1868年
設立者上坂仙吉
本部〒600-8115
京都府京都市左京区一乗寺塚本町21-4[2]
首領金子利典(本名:金元)[2]
活動範囲1道1府[2]
構成員数
(推定)約40人(2023年12月現在)[2]
会津小鉄会(あいづこてつかい[3])は、京都府京都市左京区に本部を置く博徒系指定暴力団。構成員は2023年12月の時点で約40人[2]。 1935(昭和10)年、仙吉の実子である二代目の上坂卯之松が死去し、いったんは名跡が途絶えたものの、しばらく後の1975(昭和50)年、初代の系譜を受け継ぐ中島会(会長・中島源之助)の若頭だった図越利一が、周囲の意向も受けて、「三代目会津小鉄会」として名跡を復活させた。 2017年、金子利典(本名:金元)を会長とする神戸山口組に属する既存組織と、原田昇を会長とする山口組に属する組織とで分裂[4]、2021年4月までに京都府警察が一本化を確認するまでに2つの「七代目会津小鉄会」が存在する事態になった[5]。2019年、京都府公安委員会は金子利典を会長とする七代目会津小鉄会を指定暴力団として官報に公示した[6]。 2009年まで京都府内の山口組より多くの構成員を擁していたが、山口組の府内勢力の伸長と会津小鉄会自身の縮小により2010年に逆転した。そして、2009年から2018年の間で構成員は600人以上減少し、2017年の分裂直前の構成員数は約100人ほどとなっていた[7][5]。かつては1,600人程(1993年3月時点)の構成員を擁していた[8]。また、2020年末まで勢力範囲が京都府内のみであったが、「令和5年における組織犯罪の情勢【確定値版】」によれば、北海道にも勢力があることになっているが、北海道警察ホームページに記載している情報では、2022年末時点でいないことになっている[2][9]。 2021年、京都市下京区にある元本部事務所(1989年築)のビルと敷地が不動産業者に売却、解体[10]。更地になった後、任天堂創業家が運営する財団が買収して芸術家の創作拠点などとして整備する方針を示した[11]。
概要
略歴
初代
1868年、上坂仙吉は、会津小鉄を結成した。
1886年、会津小鉄・上坂仙吉は、病死した。
詳細は「会津小鉄 (幕末)」を参照
二代目
1886年、上坂卯之松(上坂仙吉の実子)は、会津小鉄二代目に襲名した。
1935年、会津小鉄二代目・上坂卯之松は、死去した。
三代目
二代目中島会会長・図越利一は、中島連合会を結成した。
1975年03月、三代目会津小鉄会会長に襲名した。
四代目
1986年07月、三代目会津小鉄会理事長・高山登久太郎(本名:姜外秀)は、四代目会津小鉄会会長に襲名した。
四代目会津小鉄会から会津小鉄四代目に改称した。
1997年02月、会津小鉄四代目・高山登久太郎は、引退した。
五代目
1997年02月、図越利次(図越利一の実子)は、会津小鉄五代目に襲名した。
1998年12月、会津小鉄五代目から五代目会津小鉄会に改称した。
六代目
2008年11月、五代目会津小鉄会理事長四代目中川組組長・馬場美次は、六代目会津小鉄会会長に襲名した。
2017年01月、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長・原田昇(本名:津波廣保)、六代目会津小鉄会舎弟頭五代目中川組組長・臼井昭夫、破門処分されていた岡山満は、六代目会津小鉄会会長・馬場美次を監禁し、他団体にFAXで、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長・原田昇を七代目会津小鉄会会長に指名したとの内容を送信し、六代目会津小鉄会から絶縁処分された。このため会津小鉄会は分裂した。
七代目
2017年1月21日、六代目会津小鉄会会長・馬場美次は七代目会津小鉄会総裁に就任し、六代目会津小鉄会若頭四代目いろは会会長・金子利典(本名:金元)が七代目会津小鉄会会長を襲名した。
一方、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長・原田昇もまた七代目会津小鉄会会長と名乗り、神戸山口組系と六代目山口組系の組織体が存在する事態となった。
2017年4月、京都地方裁判所は、下京区に位置する会津小鉄会本部事務所の使用禁止とする決定を出した[12]。
2021年1月、淡海一家の事務所に於いて、弘道会竹内会長と野内若頭の下に七代目会津小鉄の金子会長が出向き、金子会長が一連の経緯から野内若頭に頭を下げ、原田氏が会津小鉄の若頭として戻り一本化した。若頭の新原氏は本部長に降格した。
歴代
初代:上坂仙吉
二代目:上坂卯之松
三代目:図越利一
四代目:高山登久太郎(本名:姜外秀)
五代目:図越利次
六代目:馬場美次
当代
七代目:金子利典(本名:金元)
構成
会長 - 金子利典(四代目いろは会会長)
若頭 - 原田 昇(心誠会会長)
本部長 - 新原 徹(新原組組長)