会津大塚山古墳
全景(左に前方部、右奥に後円部)
所属一箕古墳群
所在地福島県会津若松市一箕町
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度30分46.83秒 東経139度56分38.84秒 / 北緯37.5130083度 東経139.9441222度 / 37.5130083; 139.9441222
会津大塚山古墳(あいづおおつかやまこふん)は、福島県会津若松市にある古墳。形状は前方後円墳。一箕古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
福島県では亀ヶ森古墳(河沼郡会津坂下町青津)に次いで第2位、東北地方では第4位の規模を誇る古墳で、4世紀末の築造と推定される。 会津盆地東部に立つ大塚山の山頂に位置する墳丘全長114メートルの前方後円墳である。 発掘調査当初は、全長90メートル、後円部の径45メートル・高さ6メートル、前方部の幅23メートル・高さ3.5メートルで前方部が狭く細長い柄鏡形の古墳と考えられていた。しかし、1988年(昭和63年)の再測量の結果、全長114メートル、後円部径70メートル・高さ約10メートル、前方部前幅54メートル、墳丘途中に段をもつ前方部二段、後円部三段築成の古墳であることが判明した。 築造年代は4世紀末と推測され、東北地方では古い時期の古墳の1つになる。一箕古墳群では本古墳を含み3基の大型前方後円墳が確認されているが、他の2基の飯盛山古墳
概要
1972年(昭和47年)に「大塚山古墳」として国の史跡に指定された。 会津大塚山古墳は1920年(大正9年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、1964年(昭和39年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。 この調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。 この調査によって古墳の全容がおおよそ判明し、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。 発掘調査の際に、後円部中心から出土した南北2基の割竹形木棺からは多くの遺物が検出されたが、その代表的なものは三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡(現在は否定論者も多い)は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。
規模
墳丘全長:114メートル
後円部
後円部直径:70メートル
後円部高さ:約10メートル
前方部
前方部前幅:54メートル
後円部墳頂
2号墳
発掘調査
出土品南棺出土 三角縁唐草文帯三神二獣鏡(福島県立博物館展示)