伏龍
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この項目では、第二次世界大戦末期の日本軍による特攻兵器について説明しています。諸葛亮の青年時代の通称については「諸葛亮」を、ライトノベル作家については「伏(龍)」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年10月)
アメリカ海軍が作成した伏竜のスケッチ

伏龍(ふくりゅう)は、第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器。「人間機雷」とも呼ばれる。潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法のことである[1]
運用

利用された潜水具は、1945年3月末(東京大空襲の直後)に海軍工作学校が1ヶ月で試作した代物で、逼迫する資材と戦況に対応するため、出来得る限り既製の軍需品を用いて製作された。ゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛を仕込んだ草鞋(ワラジ)を履いた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で、訓練用の航空機やその燃料が枯渇しつつあった海軍飛行予科練習生(予科練)の生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。

待機限界水深は、棒機雷の柄が2メートルの場合は約4メートル以内、柄が5メートルの場合は7メートル以内。待機可能時間は約5時間。武装は炸薬量15キロの成形弾頭である五式撃雷(通称・棒機雷)。刺突機雷の五式撃雷は敵の舟艇が隊員の頭上を通過しない限り有効な一撃は与えられず、機雷が爆発すれば、水を伝わる爆圧で隊員はほぼ確実に死ぬものだった[1]

潜水兜の中に浮力調整のスイッチがあり、頭部を傾けて押すことで浮力を抜く方法が用いられた。しかし、この操作方式は精度が悪く、潜水時に誤ってスイッチを強く押して完全に浮力が抜けた場合、装備の総重量により海底に墜落し、重傷を負うか死亡する可能性があった。

潜水缶は伏龍の最大の欠陥部分であった。これは長時間の潜水を可能にするために考案された、半循環式の酸素供給機であった。呼気に含まれる二酸化炭素を、苛性ソーダを利用した吸収缶で除去、再び吸入する方式である。吸収缶には潜水艦用のものが転用された。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、他の潜水具に見られる呼気からの気泡を生じないという利点があった。しかし、鼻で吸気して口から排気するよう教育されていたが[2][3]、実際には3、4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神しやすかった[4]。呼吸を間違えると、陸上で潜水服を装着したまま歩いている時でも失神してしまったという[5]。その上、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)は海水に溶解し、大きな溶解熱のために高温となった強アルカリ性の海水が潜水兜内に噴出し肺を焼くという、重大な欠陥があった。訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。

伏龍の作戦では遊泳は考えられておらず、隊員は足の鉛を重しとして、海底を歩いて移動することになっていた。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、これを伝いながら沖合に向かって展開する予定であった。海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。また5名一組で行動する場合、先任者のみがコンパスを持ち、部下達を誘導した[6]。訓練では指導・救助用の小舟に命綱を経由したモールス信号で「海底到着」「右に行け」「停まれ」「浮上せよ」といった方式で陸上との簡単な連絡ができたが[7][8]、仮に実戦投入されていれば陸上との通信手段はなかった。訓練では海中で手先信号や接触会話をおこなったが、意志疎通は難しかった[5]。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。

海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。五式撃雷は長い柄を持っていたが、水の抵抗のある海中では自由にこれを振り回すこともできず、当初5mも長さがあったものが2mに切り詰められた。また棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることはできなかったが、数メートル離れたところを通過しても刺突することは不可能で、隊員の直上を上陸用舟艇がたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。しかも、部隊の展開密度を上げると棒機雷が炸裂した時の爆圧で、近くの隊員まで巻き添えになるどころか次々と誘爆してしまう問題点があった[4]。そもそも、海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう[4]。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。

本土決戦では、まず特攻機が米軍の機動部隊に体当たりし、輸送艦などが接近すれば人間魚雷回天や母艦部隊(海上挺進部隊)、特攻艇震洋マルレ陸軍海上挺進戦隊)などの水上特攻部隊が迎撃、そして上陸用舟艇を水際で迎撃するのが伏龍という構想であった[9]


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