伏見稲荷大社
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伏見稲荷大社

境内
(左に外拝殿(重要文化財)、右奥に内拝殿)
所在地京都府京都市伏見区深草薮之内町68番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度58分1秒 東経135度46分23秒 / 北緯34.96694度 東経135.77306度 / 34.96694; 135.77306 (伏見稲荷大社)座標: 北緯34度58分1秒 東経135度46分23秒 / 北緯34.96694度 東経135.77306度 / 34.96694; 135.77306 (伏見稲荷大社)
主祭神稲荷大神
宇迦之御魂大神ほか4柱の総称)
神体稲荷山(神体山
社格式内社名神大
二十二社(上七社)
官幣大社
創建和銅年間(708年 - 715年
本殿の様式流造
札所等神仏霊場巡拝の道第123番(京都第43番)
例祭5月3日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}伏見
稲荷大社
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伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府京都市伏見区深草薮之内町にある神社式内社名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は単立神社となっている。

旧称は「稲荷神社」。1946年に現社名に改称した(後述)。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)[2]。現存する旧社家は大西家。

「伏見」を冠しているが、近代以降の市町村合併によって紀伊郡稲荷村→福稲村→深草村(のち深草町)を経て1931年に京都市伏見区となった経緯があり、伏見の中心部にある御香宮から北へ3 - 4km離れた場所にある。また、当社と御香宮のほぼ中間に藤森神社がある。
概要大鳥居

京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の3つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする[3]。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する[4]平安時代東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守神となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大[5]、次第に神位を高めて『延喜式名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた[6]。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与した[7]という。

明治政府神仏分離令によって、本願所[注 1]のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている[8]
祭神

祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている[9][注 2]

主祭神である[10]宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(1つの社殿に合祀する形)に祀っている[9]

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) - 下社(中央座)

佐田彦大神(さたひこのおおかみ)- 中社(北座)

大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)

田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)

四大神(しのおおかみ) - 中社摂社(最南座)

稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった[11]
田中大神および四大神について

摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒がはっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神的傾向が濃厚」としている[10]

下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神猿田彦神鴨建角身命などとも同一視された[10]

中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない[10][注 3]江戸時代国学者、前田夏蔭によれば「若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・オオゲツヒメ御子神であり、四季を表す神とも考えられる[10][注 4]
歴史
「秦氏の祖霊として創建」の縁起

「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされる秦伊侶具のものが有名である。風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。


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