伏見宮
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伏見宮家
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}伏見宮十四裏菊(ふしみのみやじゅうよんうらぎく)
家祖栄仁親王
北朝第3代崇光天皇の第一皇子)
種別皇族世襲親王家直宮家
出身地京都山城国
主な根拠地山城国伏見御領
東京府東京市麹町区紀尾井町
(現:東京都千代田区紀尾井町)
著名な人物貞成親王
貞敬親王
邦家親王
貞愛親王
博恭王
支流、分家梨本宮
山階宮
久邇宮
華頂宮
小松宮
北白川宮
東伏見宮
閑院宮
清棲家
華頂家
伏見家
凡例 / Category:日本の氏族

伏見宮(ふしみのみや)は、日本皇室における宮家の一つ。
概要

応永16年(1409年)、北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を初代として創設された。宮号の由来は、その所領だった伏見御領に因む。

世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、宮家としても史上最長の26代、約600年にわたり存続している。

宮家御紋は伏見宮十四裏菊菩提寺広義門院創建の大光明寺家業琵琶[注釈 1]楽道

明治から昭和初期にかけて、数多くの連枝が新宮家・華族家を創設した。

昭和22年(1947年)10月14日、26代・博明王の代で皇籍離脱。いわゆる旧皇族の一つである。博明王に男子がいないことから、断絶見込み。
歴史「旧皇族#歴史」および「世襲親王家」も参照
成立(中世)北朝天皇家系図

南北朝時代前期、持明院統北朝)の治天の君であった光厳上皇は、かねてより名目上花園法皇の皇子とされる直仁親王(光厳上皇は直仁親王が実子であると崇光天皇に告白していた)への皇位継承を望み、持明院統の将来の正嫡に定めた上で、第一皇子である北朝3代崇光天皇皇太弟とした[注釈 2]

しかし、正平一統後の三上皇及び廃太子直仁親王の拉致によって親王の皇位継承が困難となると、改めて第一皇子の崇光上皇を持明院統北朝天皇家)の正嫡と定めた。この際、光厳法皇は崇光上皇に持明院統正嫡が修得する琵琶の秘曲(石上流泉・上原石上流泉・太常博士楊真操啄木)を伝授し、持明院統伝来の膨大な記録類を継承させた[注釈 3]。さらに、長講堂領や法金剛院領などの持明院統の所領を相続させたが、伏見御領をそれらの所領とは分けて崇光上皇の子孫が管領するように命じた[2][3]

その後、崇光上皇が弟の後光厳天皇との皇位継承争いに敗れると、崇光上皇は伏見御領にある離宮の伏見殿に逼塞し、伏見殿と呼ばれるようになった[4]。崇光上皇の崩御後、崇光上皇の第一皇子である栄仁親王は、持明院統伝来の所領を持明院統の「嫡流」として相続していたが、長講堂領、法金剛院領、熱田社領、播磨国衙を[5]後光厳天皇の孫である後小松天皇に没収された(後小松院死後、長講堂領、法金剛院領は後花園天皇に、熱田社領は伏見宮に帰属した[6])。消沈した栄仁親王は出家入道してしまった。近臣の庭田経有は「凡そ天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり。只、悲涙に溺れおわんぬ」と述べている[7]。また、伏見御領を後光厳天皇の皇統の皇位継承を支持する足利義満に没収された。義満の死後、亡き光厳法皇の命令をもとに伏見御領は返還され、崇光の子孫も主に伏見殿に住むようになる。伏見宮から即位した後花園天皇

後光厳天皇の皇統の断絶によって、伏見宮貞成親王の第一王子彦仁王が後小松上皇の猶子として即位した(後花園天皇)。しかし、後小松上皇の崩御の際には、正嫡である崇光天皇の皇統として皇位継承するべきとする貞成親王の本望は叶わず、後花園天皇は後光厳天皇皇統の後継であると再確認された[注釈 4]。しかし、後小松院の「遺詔」に「旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからず」「貞成に尊号(太上天皇)あらば後光厳院の御流、たちまちに断絶せんか。尊号の御沙汰あるべからず」とされていたにもかかわらず[9]、貞成親王は将軍足利義教の申し出で京都の旧後小松上皇御所の隣の邸宅に移住し、やがて後花園天皇の「兄」として尊号宣下がなされ[注釈 5]、貞成親王は皇位を踏まずして太上天皇となった[10]

その後、貞成親王の第二王子で後花園天皇の実弟にあたる貞常親王が4代目となったが、貞常親王は後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され[11]、伏見宮には天皇との「水魚」の関係、すなわち天皇を支える立場となることが期待された[12]
近世

江戸時代において、伏見宮の歴代当主は、その時々の天皇の名目上の養子(猶子)として親王に叙せられた(親王宣下)。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}江戸中期から幕末にかけて、実際に天皇の候補とされた当主も2名存在する[要出典]。また、天皇家と伏見宮は縁戚関係も築いており、天皇の皇女2名(福子内親王秋子内親王)が伏見宮家に降嫁している[13]

他の宮家とは異なり、伏見宮は邦忠親王まで全て実系で宮家を継承してきた。しかし、宝暦10年(1760年)に当主の邦忠親王が王子を残さず薨去すると、世襲親王家との血縁を近くしたい天皇の意向もあって、桃園天皇の皇子である貞行親王が伏見宮を嗣いだ。貞行親王が夭逝したのちも、朝廷はまだ誕生していない後桃園天皇の皇子を伏見宮の後継者とするように定めた。ところが、崇光天皇以来持明院統の嫡流であり、しかも実系で宮家を継承してきたという矜持を持つ伏見宮家側は、幕府との血縁を利用して、実系継承に戻すよう幕府に工作する。そして、邦忠親王の弟である寛宝法親王を還俗させ、邦頼親王として家督を継承させることに成功した。伏見宮は15年ぶりに崇光上皇以来の実系に戻ったのであった[14]

幕末の宮廷においても、伏見宮は「伏見殿」と呼ばれ近世歴代天皇の祖である後花園天皇の出身宮家として天皇と同様な存在とみなされていたという[15]。幕末には朝彦親王孝明天皇に信頼され側近として天皇を補佐し、天皇の意向を受けて八・一八の政変を主導するなどの活躍をした[16]戊辰戦争の際には、伏見宮出身の輪王寺宮公現法親王上野戦争の時には江戸幕府方の旗印として寛永寺に立て籠もり、その後、東北に逃げのびて奥羽越列藩同盟の盟主である「東武皇帝」として即位していたという説もある[17]


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