伏見宮博恭王
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伏見宮博恭王
伏見宮
1920年代撮影
続柄

伏見宮貞愛親王第1王子(庶長子)

崇光天皇男系16世孫

霊元天皇女系7世孫

東山天皇女系6世孫


身位
敬称殿下
出生1875年10月16日
日本東京府麹町区
死去 (1946-08-16) 1946年8月16日(70歳没)
日本東京都品川区上大崎、伏見宮邸
埋葬1946年8月21日
豊島岡墓地
配偶者徳川経子
子女博義王
恭子女王
華頂宮博忠王
博信王
敦子女王
知子女王
博英王
父親伏見宮貞愛親王
母親河野千代子
栄典 大勲位菊花章頸飾
役職 大日本帝国海軍
元帥海軍大将軍令部総長
議定官
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伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、1875年明治8年〉10月16日 - 1946年昭和21年〉8月16日)は、日本皇族海軍軍人ドイツ帝国海軍兵学校・海軍大学校卒業(日本海兵18期相当)。栄典元帥海軍大将大勲位功一級伏見宮貞愛親王の第一王子(庶長子)。伏見宮第25代当主。議定官軍令部総長を務めた。初め名を愛賢王(なるかたおう)といい、華頂宮相続に当たり名を博恭王と改めた。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う[注釈 1]艦長艦隊司令長官を務める等、皇族軍人の中では際立って実戦経験が豊富であった。伏見軍令部総長宮殿下(ふしみぐんれいぶそうちょうのみやでんか)、伏見元帥宮殿下(ふしみげんすいのみやでんか)などとも呼ばれた。
生涯
生い立ち

貞愛親王とその女房の河野千代子との間に第一王子愛賢として生まれた。当時貞愛親王は満17歳であった。庶子であったことから、誕生当初は王の身位も与えられなかった。

公家社会の嫡庶の序を重んじる伝統に加え、一夫一妻制をとる西洋社会の影響から、伏見宮の継嗣の対象からは外された。邦家親王とその正妃親王妃景子との間に生まれた父の貞愛親王や伯父で先代伏見宮の貞教親王も、庶子であった数人の兄たちを飛ばして伏見宮家を継承している。当時の太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる予定であった。
華頂宮の継承

1876年(明治9年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、博経親王の子博厚が皇族に列し、華頂宮家を継承した[注釈 2]

その博厚も1883年(明治16年)に8歳で薨去。明治天皇の特旨をもって華頂宮の存続を決定し、まず博厚王[2] を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては、本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることとし、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承、同時に名を博恭と改めた。
海軍軍人

華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し(16期)、海軍軍人としてのスタートを切る。3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、キール海軍兵学校キール海軍大学校(Marineakademie und -schule)で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。この間、1891年(明治24年)4月にはキール軍港の軍艦進水式に親臨したウィルヘルム二世と対面した[3]。1893年(明治26年)3月30日には海軍少尉候補生を命じられ、1894年(明治27年)4月20日に海軍少尉に任官した[4]。ドイツ海軍大学校を卒業した後には貴族院議員(皇族議員)に任じられた。

博恭王は、日本の海軍兵学校は「期外」である[5]。しかし、海軍史家の野村実は「日本海軍は明らかに、博恭王を海兵十八期生として待遇していたわけである。」[6]と述べている。博恭王の進級は、海軍中尉進級から海軍大佐進級まで、兵18期クラスヘッドの加藤寛治と同時であった(海軍少将進級は、博恭王が大正2年8月、加藤が大正5年12月)[6][7][8]

日本への帰国後は巡洋艦戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた行動様式や生活が身につくことになる。帰国後、海軍少尉として海防艦「厳島」、「松島」に乗船、明治30年海軍中尉として戦艦「富士」に乗船。その後、海軍大尉として装甲巡洋艦「浅間」、同「出雲」、戦艦「朝日」、明治39年には海軍少佐となり戦艦「三笠」に乗船した[9]

1897年(明治30年)1月9日、徳川慶喜の九女・経子と結婚した[10]

1903年(明治36年)に海軍少佐に任官される。戦艦「三笠」の第三分隊長として後部砲塔の指揮に当たる。

1904年(明治37年)日露戦争が開戦すると同配属のまま、司令長官・東郷平八郎、艦長・伊地知彦次郎、砲術長・加藤寛治らとともに同じ船で出征した。日本海軍が博恭王を海上第一線の最重要部門に配置していたことは明らかである[11]

翌1904年(明治37年)、邦芳王廃嫡に伴い、華頂宮から急遽伏見宮に復籍して後嗣となり、また第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった[12][注釈 3]


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