logo伏見城
(京都府)
模擬大天守、小天守
別名桃山城、木幡山城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造不明(指月・1592年築)
不明(木幡山・1596年築/1601年再)
いずれも非現存
複合式望楼型5重6階(花畑曲輪跡・1964年築・RC造模擬)
築城主豊臣秀吉
築城年1592年(文禄元年)
主な改修者徳川家康
主な城主豊臣氏、徳川氏
廃城年1623年(元和9年)
遺構移築門、石垣、水堀、土橋、天守台
指定文化財伏見桃山陵が宮内庁治定
再建造物模擬天守
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度56分22.1秒 東経135度46分36.8秒 / 北緯34.939472度 東経135.776889度 / 34.939472; 135.776889
伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区の桃山丘陵にあった日本の城。
概要豐臣秀吉画像
伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。
伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。
指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない(正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされ、その際「人血であることは確認できなかった」が「血液型は数種検出された」とする(正伝寺掲出新聞記事)。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされた。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった[注釈 1]。 伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が1591年(天正19年)に関白の位と京都における政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、自らの隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。
沿革
豊臣秀吉隠居屋敷