伏見天皇
伏見天皇(天子摂関御影)
第92代天皇
在位期間
1287年11月27日 - 1298年8月30日
弘安10年10月21日 - 永仁6年7月22日
即位礼1288年4月16日(正応元年3月15日)[1][2]
大嘗祭1288年12月16日(正応元年11月22日)[3][4]
元号弘安
正応
永仁
時代鎌倉時代
関白二条師忠→近衛家基→九条忠教→近衛家基→鷹司兼忠[5]
先代後宇多天皇
次代後伏見天皇
誕生1265年5月10日(文永2年4月23日)[6][7]
崩御1317年10月8日(文保元年9月3日)[8][9]
持明院殿
大喪儀1317年10月9日(文保元年9月4日)[10]
陵所深草北陵
追号伏見院
(伏見天皇)
諱熙仁
別称素融(法名)[11]
持明院殿[12]
元服1278年1月13日(建治3年12月19日)[13]
父親後深草天皇
母親洞院?子(玄輝門院)
中宮西園寺?子(永福門院)
子女後伏見天皇
花園天皇
ほか(后妃・皇子女節参照)
親署
テンプレートを表示
伏見天皇(ふしみてんのう、1265年5月10日〈文永2年4月23日〉- 1317年10月8日〈文保元年9月3日〉)は、日本の第92代天皇(在位:1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉- 1298年8月30日〈永仁6年7月22日〉)[14]。諱は熙仁(ひろひと)。
後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、?子(玄輝門院)[15]。
持明院統の天皇で、在位中には大規模な訴訟制度改革を実行。皇太子時代より新しい歌風を模索し、京極為兼とともに京極派を成立させ、『玉葉和歌集』の勅撰を行った。書道にも優れ、「書聖」とも称される。 熙仁の誕生当初、叔父の亀山天皇の子孫への皇位継承が決まりかけていたが、父後深草上皇が出家の意向を表明すると、それに同情した幕府の措置によって、熙仁は皇太子となった。(→#皇太子となる) その後、霜月騒動の余波を受けて践祚。在位中は、宮廷内で威勢をふるっていた後深草の近臣集団や訴訟に介入してくる平頼綱の側近を排除したり、庭中の新設に代表される、訴訟制度の大規模な改革を行うなどした。こうした鎌倉時代後期の訴訟制度改革によって、承久の乱以降破綻していた治天の君の権力が回復することになったという評価も存在する。(→#践祚・#伏見親政) しかし、春宮時代から伏見に仕えていた京極為兼が幕府に処罰され、皇子の胤仁親王(後伏見天皇)への譲位を余儀なくされた。
概要