伍子胥
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伍子胥
伍子胥像(蘇州盤門伍子胥祠)

出生不詳
、乾渓
死去紀元前484年
?音W? Z?x?
子胥
伍奢
兄弟伍尚、伍子胥
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伍 子胥(ご ししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代政治家軍人は員(うん)。子胥は

の名家に生まれたが、父と兄が楚の平王によって処刑されたため楚を逃れて呉に亡命した。呉では呉王闔閭の側近となって兵家孫武を王に推挙し、孫武と伍子胥を得た闔閭は楚を破りその都を陥落させた。このとき伍子胥は既に死去していた平王の墓を暴き、その屍を300回鞭打って父と兄の恨みを晴らしたという。後に闔閭の臨終に際して公子夫差を後継者に推挙し、呉王となった夫差は苦難を重ねて勾践を破るが、晩年は夫差に疎まれ、最期は夫差に授けられた剣で自ら命を絶った。
生涯
楚から呉へ

の乾渓(現在の安徽省亳州市利辛県)の人。直言をもって荘王から信頼された伍挙の孫で、代々楚の重臣を担った家柄であった。伍子胥の父の伍奢平王の子の太子建(中国語版)の太傅(侍従長兼教育係)で、直言清廉で知られていた。伍子胥は九(約2m)を超える身長と、盛んな意気を持っていた。

紀元前527年、太子建に秦から嫁を貰うことになり、少傅(副侍従長)の費無忌が楚に嫁いでくる伯?を秦まで迎えに行った。しかしその美しさを見て平王に取り入ろうと考え、伯?を平王の側室に薦めて、太子には別の女性を与えさせた。これにより費無忌は太子付きから平王の側近に取立てられたが、恨みを持つ太子がこのまま即位しては自らが危ないため、盛んに平王へ中傷を吹き込んだ。

これにより平王と太子建との仲が悪くなり、紀元前522年に建が太子を廃されることになると、伍奢とその子の伍尚(中国語版)(伍子胥の兄)と伍子胥もその影響力を恐れられ、平王は殺すことにした。平王は伍奢を捕え、「都から離れているお前の息子たちを呼べ。そうすれば助けてやる」と言ったが、「伍尚は心優しいですから殺されるとわかっていても来るでしょうが、伍子胥は違います。苦難に耐える意気を持っております。来るわけがありません」と断られた。次いで平王は伍尚と伍子胥へ「お前たち兄弟が都に来たら父を助ける」と使者を送った。平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は自分たちを全員殺すための罠と見破り、伍尚へ逃げようと誘うが、伍尚は「そうだろうが、父を見捨てられない。私は楽な道を選ぶ」と命に従い、伍子胥は使者を弓矢で脅して逃れた。なお、伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢は伍子胥が逃亡したのを知ると「楚の君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した。

伍子胥は復讐を誓い、太子建と共にに脱出する。その途上に親友の申包胥と会った際、伍子胥は「必ず楚を滅ぼしてやる」と言い、申包胥は「ならば、私は臣として楚を守ろう」と言った。鄭で太子建は匿われたのにも関わらず、に唆されて鄭に反逆しようとしたため、逆に殺される。月岡芳年『淮水月 伍子胥』

だが、伍子胥は太子建の子の熊勝(中国語版)と共に、今度は呉に逃亡した。この道中は過酷なもので、物乞いをして凌いだことも、病で死線を彷徨ったこともあったという。また、楚と呉との間にある長江の辺りで追手に追われている際、たまたま居た漁師に隠れるように促され、更に長江を渡して貰った。その礼として持っていた百金はする剣を渡そうとしたが、漁師は断った。伍子胥が再び勧めると、「伍子胥という人を捕らえた者には、爵位と5万石を与えると聞く。百金など要らないよ」と去っていったという。
死屍に鞭打つ

呉で伍子胥は公子光に仕え、呉王僚や公子光に楚を攻めるよう進言し、呉王僚はその気になったが、公子光はまだ早いと抑えた。これに伍子胥は公子光に野心ありと見抜き、専諸を推挙する。自らは呉が内紛で荒れると見て、農夫となって暮らし時節を待った。

紀元前515年、呉の主力軍が出征した楚で立ち往生するに至ると、呉王僚の王位継承を不当だと思っていた公子光は、国内が手薄な今がクーデターを起こす絶好の機会と考えた。そして、呉王僚を宴席へと招き、専諸を差し向けてこれを暗殺した。公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。こうして、伍子胥は楚の隣国の王の側近という立場を得た。

また、伍子胥は孫武の著した『孫子兵法』を献上し、7回にわたり登用を説いた。孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。

そして、伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。楚へは十分な準備が整うまではと闔閭を抑えていたが、楚の広大さと君主が幼少に変わったばかりなことを突き、小規模な兵を出して国境の集落を襲い、楚が国軍を発して迫ると引くということを繰り返して国力を浪費させた。

紀元前506年、闔閭は「そろそろ楚を攻めようと思うのだが」と伍子胥と孫武に聞いた。伍子胥は「楚の内情は酷く勝てるでしょうが、万一もあります。属国として搾取され、楚への恨みを貯めている唐と蔡を味方に付ければ万全です」と答え、使いを出すと唐と蔡は即座に内諾した。こうして闔閭・伍子胥・孫武は本格的な楚侵攻を始める。柏挙の戦いである。十分な準備に加え、楚の地理と内情を良く知る伍子胥・兵法の天才孫武という人材が揃い、連戦連勝して、遂には楚の都を陥落させた。平王は既に死んでいたので伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。これが「死者に鞭打つ(死屍に鞭(むちう)つ)」の語源になった。この事をかつての親友の申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「吾、日暮れて塗(道)遠し、吾、故に倒行して之を逆施す(吾日暮塗遠、吾故倒行而逆施之)」と答えた。「自分はもう年を取っているので、(物事を行うに当たって)正しい道理に逆らった手段・方法を採る。」という意味である。こちらは「日暮れて道遠し(ひくれてみちとおし)」、四字熟語「倒行逆施(とうこうぎゃくし)[1]」の故事となっている。
旧友と奇策

しかし、首都陥落直前に楚王(廃太子の異母弟である昭王)は逃亡していた。放っておけば地方の兵などを使って再興しかねないため、徹底的に探させたが、なかなか見つからなかった。

紀元前505年、その間に王の允常が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥がの援軍を取り付け、形勢は悪化。闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟の夫概が勝手に帰国し呉王を名乗ったため、楚から引き上げてこれを追い払った。

呉に戻った伍子胥は再び闔閭の補佐に努め、呉を天下に並ぶもの無き強国にまで押し上げた。次は楚への侵攻や中原に進出していくことになるが、その前に隣国の越を攻めるよう進言した。越から見れば中原に出るには呉が邪魔であり、呉からも中原に出れば越に背後を突かれる恐れがあった。また、越は今のところ気にするまでもない小国だが、急速に国力を増大させていることを見逃さず、将来の禍根となることを恐れたためである。闔閭はこれを聞き入れ、呉の富国強兵に尽力した。

紀元前496年、越王允常の訃報を聞いた闔閭は、伍子胥の進言もあり、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐した。しかし、允常の子で後を継いだ勾践の家臣の范蠡との知恵比べに負けて、呉軍は越軍に大敗した。この時、闔閭も越の武将である霊姑孚が放った矢によって片足を負傷し、破傷風を起こして容態が悪くなり、床に伏せるようになる。
呉王夫差

闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差は情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これに伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた[2]。闔閭は夫差を呼び「勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。

間もなく闔閭が死去して夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓う。伍子胥もそれを補佐し、着々と準備を進めた。これを恐れた勾践は范蠡の反対を押し切り、紀元前494年に越軍を率い呉に攻め入るが大敗。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。

勾践は使者を送り、「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず災いとなります」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許した。

これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。


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