伊那電気鉄道
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伊那電気鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
東京市麹町区丸の内一丁目6-1
海上ビル[1]
設立1907年明治40年)9月30日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業[1]
代表者社長 桜木亮三[1]
資本金13,151,200円(払込額)[1]
発行済株式総数414,440株(昭和17年度)[2]
(内第一新株4,150)[2]
(〃第二新株249,050)[2]
主要株主

鉄道電気証券 44,396株[2]

両総電気 27,667株[2]

東邦電力 19,760株[2]

松本証券 5,825株[2]

高橋商事 3,550株[2]
(昭和17年度)

特記事項:上記特記無きデータは1943年(昭和18年)4月1日現在[1]1942年3月31日まで一般電気供給事業も行っていた。
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伊那電気鉄道(いなでんきてつどう)は、明治から昭和にかけて存在した日本の鉄道会社電力会社である。本社は東京市麹町区丸ノ内1丁目にあった。長野県で開通した最初の私鉄で、鉄道路線は現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の前身の1つ。
歴史

木曽谷経由で建設された中央本線の誘致に失敗した伊那谷の有力者達は自力での鉄道建設を考え、1895年明治28年)、上伊那郡伊那富村から下伊那郡飯田町へ至る約40マイルの電気軌道の敷設を請願した。この時国内電気軌道はまだ京都電気鉄道が唯一であったが、松本出身で東京在住の男爵辻新次(初代社長)に鉄道建設の協力を依頼された高木守三郎[3]が、大師電気鉄道発起人であったこと[4][5]であったことや、当時急成長を遂げていた諏訪地方の製糸工場への配電を目指して辻が初代社長に就任した諏訪電気株式会社1896年電気事業許可、後信州電気、中部配電を経て中部電力[6][7]と配電契約を結び、受電出来るようにしたことが要因とされている。

1897年2月に軌道特許状が下付されたものの、不況で株式募集は難航し、計画は一旦頓挫。中心人物であった伊原も死去した。1906年に伊原の三男、恒次が学業を終えて帰郷し九代目伊原五郎兵衛[8]を襲名した上で発起人総会を開いて株式募集を再開。諏訪電気の関連会社として[6]東京市京橋区新富町にあった同社本社内に1907年(明治40年)9月、伊那電車軌道株式会社が設立され、諏訪電気社長辻が社長に就任した[6]

最初の開業区間は1909年辰野 - 松島(現・伊那松島)間で、軌道法による軌道(路面電車)規格であった。その後、資金を調達次第、路線の延伸工事が小刻みに繰返され、1911年に伊那町(現・伊那市)まで開通した。1914年開設の旧・伊那電車軌道砥川発電所(現・中部電力砥川発電所、諏訪郡下諏訪町旧・長野電灯小黒発電所。1915年の同社買収で伊那電車軌道小黒発電所となった(現・中部電力小黒発電所、伊那市

軌道の動力電気は、両社社長を兼任する辻の基で事実上一体経営が行われていた諏訪電気落合発電所(1900年運転開始、諏訪郡下諏訪町、現・中部電力落合発電所)からの送電線で受電していたが、諏訪郡内では電力需要の急伸に諏訪電気の発電能力の整備が追付かず、郡内の配電申し込みに満足に応じられない慢性的な需給逼迫状態に陥っていたため[9]、大口需要家である諏訪郡内の製糸業界は、郡内に直接関係を持たない事業を始めた関連会社経営に強く関わり、需給状態が改善出来ないまま郡外に送電を続ける諏訪電気に対し、強い不信感を抱くようになった。

ついに1912年、諏訪郡内の製糸業界が中心となり、諏訪電気配電区域内の工場に対する安定的な配電を掲げた別の電力会社設立が計画され[9]、逓信大臣に電気供給事業経営許可を申請した[9]。ここに至って諏訪電気は、辻を諏訪電気社長から退任させて伊那電車軌道の経営を自社から分離することを決定[9]、伊那電車軌道に伊那地方での一般電気供給事業を行わせることにした。

伊那電車軌道は同年10月に電気事業許可を受ける一方、諏訪電気は下諏訪町砥川の水利権を伊那電車軌道に譲渡。諏訪電気落合発電所放水路の水を再利用する伊那電車軌道自前の発電所(砥川発電所、1914年運転開始、出力350kW)を整備させる[6]のと引き替えに、伊那電車軌道への配電契約を打ち切った[9]。伊那電車軌道は同年から上伊那郡中箕輪村の2地区に配電を開始したのを皮切りに、1915年長野電灯伊那支社、1918年に飯田電灯(下伊那郡飯田町)を買収するなどして、既に諏訪電気の配電が行われていた上伊那郡伊那富村等の一部を除く伊那地方で配電区域を順次拡大した。

1919年に社名を伊那電気鉄道株式会社に改称。1923年には、全線が軌道から地方鉄道法による鉄道規格に変更し、架線電圧を600Vから1,200Vに昇圧。1927年12月26日天竜峡 - 辰野間が全通した。1937年三信鉄道が全通すると、同鉄道を介して鳳来寺鉄道豊川鉄道に乗入れ、吉田(豊橋駅) - 辰野間で4社直通運転を開始した。天竜峡以南は架線電圧が1,500Vであったため付随車のみの直通であったが、当時の日本最長の電化直通運転であった。

電力事業では、1935年に鉄道電気証券(下伊那郡根羽村)、1937年高遠電灯(上伊那郡高遠町)、1938年に和田水力電気(下伊那郡遠山村)を買収し、伊那地方ほぼ全域と、鉄道電気証券から承継した愛知県北設楽郡上津具村下津具村を配電区域とした。1937年12月現在の発電所数は8か所で、総発電量は1万1,210kW。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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