伊那電気鉄道の電車
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晩年の伊那電気鉄道サハニフ403(弘南鉄道クハニ1272)伊那サハニフ403→鉄道省サハニフ403→国鉄サハニ7901→弘南クハニ1272 制御車化されているが、よく原型を保っている。

伊那電気鉄道の電車(いなでんきてつどうのでんしゃ)

本項では、伊那電気鉄道(現在の東海旅客鉄道飯田線の一部)が保有した電車について記述する。
概要

伊那電気鉄道は、発足当初は伊那電車軌道と称し、1909年(明治42年)12月、軌道法に準拠した「軌道」として辰野 - 松島間を開業し、1911年(明治44年)には、伊那町までが、軌道法準拠により建設された。伊那町以南は、軽便鉄道法に準拠[注 1] する「軽便鉄道」として建設され、1927年(昭和2年)に天竜峡までの全区間が開通した。

その間、1919年(大正8年)8月に社名を伊那電気鉄道と改称し、1923年(大正12年)3月に辰野 - 伊那松島間、同年12月に伊那松島 - 伊那町間を改築のうえ地方鉄道に変更し、架線電圧を600Vから1,200Vに昇圧した。

このような経緯により、伊那電気鉄道の車両は、1923年の昇圧を境として2期に区分することができる。昇圧後は、一部の600V用電車が付随車に改造されて、1,200V用電動車による牽引用に残されたほかは、新たに1,200V用電動車を製造し、取替えられている。

伊那電気鉄道は、1943年(昭和18年)8月1日に、路線の連続する三信鉄道鳳来寺鉄道豊川鉄道とともに戦時買収され、鉄道省の飯田線となった。この時点で在籍していたのは、電気機関車9両、電車29両(電動車15両、付随車14両)、貨車51両(有蓋車24両、無蓋車27両)であった。

また、伊那電気鉄道の車両について特記すべき事は、自社松島工場での車両製造能力を有していたことで、自社用ばかりでなく、他社(岡崎電気軌道三河鉄道筑摩電気鉄道)用の車両製造も請け負っていた。
昇圧前の車両

この時代の車両は、延べで2軸電動客車14両、ボギー電動客車3両、2軸付随客車5両、2軸電動貨車6両の計28両である。

伊那電気鉄道が軌道を生い立ちとしたことから、路面電車規格の4輪(2軸)車が主体である。開業時には電動客車3両、付随客車1両、電動貨車1両の計5両であったが、軌道法に基づく辰野 - 伊那町間では連結運転をすることができないため、同車の使用開始は地方鉄道法に準拠して建設された伊那町以南開業時にまでずれ込んだ。また、連結運転ができないという事情から、電動貨車を多数保有したのも特徴である。

1921年(大正10年)9月には、在籍車に廃車や譲渡により欠番を生じていたことから、番号整理のための改番(以降「第1次大改番」と呼ぶ)を実施している。
電動客車

1 - 3
1909年12月認可により、東京の天野工場
で製造された2軸電動車である。前面は3枚窓で中央窓上に行先幕、同窓下に前照灯を装備している。出入り台は開放式で、側面窓は8枚、屋根はモニター形である。定員は38人、自重は5.3t、電動機は25PS×2で台車はブリル21Eである。集電装置はポールによる単線式で、2基を屋根中央部に装備している。第1次大改番時には番号の変更はなく、1924年(大正13年)度に除籍されたものと思われる。

1, 2(?) → 7, 8
1911年(明治44年)に、後述の電動貨車1両とともに天野工場で製造された2軸電動車である。車体等の詳細は不明であるが、定員は37人、電動機出力は36PS×2に変更されている。1914年(大正3年)に次項の4 - 6が製造された際に、7, 8と改められている。しかし、前述のとおりとすると、同じ電動車である前述の1 - 3のグループと番号が重複するものがあったことになるが、これは開業したばかりの鉄道線に軌道線用として新造したの2両(4, 5と付番されていた?)を振り向け、鉄道線用の1, 2としたのではないかと鉄道史研究家の白土貞夫は推定[1] している。第1次大改番時には、他の車両が7, 8と付番されていることから、それまでに処分されたものと考えられる。

4 - 6 → 6 - 8(2代)
1914年(大正3年)に汽車製造で製造された鉄道線用の2軸電動車である。定員は37人、自重は7tで、車体はモニター屋根の角張った車体である。電動機は37PS×2で、台車はブリル21Eである。第1次大改番では、6 - 8(2代)となった。昇圧後は使用停止となり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車、解体された。

10 - 12 → 9 - 11(2代)
1917年(大正6年)に天野工場で製造された2軸電動車である。認可書類には大正3年製と同一使用とする旨の記述があるが、車体は次項の13 - 15とほぼ同一で、車体幅が若干相違する程度である。定員は37人、自重は7.5t、電動機はさらに強力となり、50PS×2である。昇圧後は使用停止となり、1925年(大正14年)8月22日付けで長州鉄道(後の山陽電気軌道)に譲渡された。

13 - 15 → 12 - 14(2代)
前項の10 - 12とともに汽車製造で製造された2軸電動車である。定員は44人、自重は8.5t、電動機は50PS×2である。昇圧後は使用停止となり、伊那電気鉄道の傍系会社であった銚子鉄道(現在の銚子電気鉄道)の電化開業用として譲渡され、同社のデハ1 - 3となった。その際に、松島工場において相当の改造を受けたものと思われ、譲渡前後で車体形状は大きく異なる。

ホ1 - ホ3
飯田までの延伸開業に際して、1920年(大正9年)6月設計認可を受け、日本車輌製造東京支店で製造された、伊那電気鉄道初のボギー車である。定員は80人、自重は21t、前面は軽いRを設けた3枚固形窓で、側面窓配置は両端に出入り台を設けてその間に窓が15枚ある。出入り台には、折戸を設けていた。電動機は50PS×4で、空気制動機を装備していた。昇圧後は、番号はそのままで電装解除のうえ電動車による被牽引専用の後付付随車として使用されたが、1926年(大正15年)4月9日付けの改番(以下「第2次大改番」という)により、サハフ300, サハフ301,サロハフ200に改められた。以降の経歴については、昇圧後の車両の節で記述する。
付随客車

600V時代の附随客車については、下記の5両が存在したと推定されるが、鉄道統計資料や営業報告書の記載に矛盾がみられ、正確なところはよく判っていない。1 - 3については、1917年(大正6年)度の鉄道統計まで記載されているが、それ以後は消滅し、1920年後期の営業報告書では2両の記載が見られ、さらに翌年前記では3両に増加し、これが1922年(大正11年)度まで続いており、要目については1 - 3と同一の数値が記載されていた。しかし、同年度の鉄道統計資料には29, 30に相当する2両のみが計上されており、営業報告書の数値と矛盾する。

1
1909年の開業に際して用意された天野工場製の2軸客車であるが、軌道法の規定により連結運転が認められなかったため、連結運転認可を受けた1910年(明治43年)8月29日付けで入籍、使用が開始された。台車形式は不明だがブリル製、自重は3.4tである。

2, 3
1912年(明治45年)天野工場製の2軸客車で、車体は1と同形である。自重は3.4t、定員は37人。

29, 30 → 35, 36
1919年(大正8年)7月、日本車輌製造製の2軸郵便荷物車である。荷重は7tであるが、郵便室と荷物室の間は簡単な柵で仕切られていたのみである。番号が従来の客車に比べて大きく飛んでいるが、これは貨車である有蓋緩急車の後に付番したためである。第1次大改番により35, 36と改番されたが、この時も有蓋緩急車の後に付番されている。昇圧まで使用されたが、1924年度に35が廃車、翌年に36は有蓋緩急車(貨車)に類別変更され、ワフ36となっている。
電動貨車

1 → 4(2代)
1909年の伊那電車軌道開業にともない、前述の電動客車3両(1 - 3)と同時認可により、天野工場で製造された
電動貨車である。荷重は2t、25PSの電動機を2基、ブリル21E台車に装架し、車体長を18ftとする記録がある一方で、荷重5t、最大長23ft6in×最大高10ft9 1/4in、最大幅6ft1/2in、電動機36PS×2個とする記録もあり、途中で自社松島工場で車体を新造し載せ換え、または、全く別物の新造車に振替えられた可能性が高い。第1次大改番により2代目4に改称されたが、昇圧後は使用されなくなり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車された。

2, 3 → 2(2代), 4 → 3(2代), 5
貨物需要の増加に伴って、1914年(大正3年)に4両が天野工場で製造されたものである。荷重は5t、最大寸法は長さ24ft11in×高さ10ft9 1/2in×幅5ft10 1/4inで、台車はブリル21E、電動機は50PS×2である。3, 4は、第1次大改番によって2, 3(いずれも2代目)に改められたが、1928年(昭和3年)4月25日付けで岡崎電気軌道(後の名鉄岡崎市内線)に譲渡され、同社の1, 2となったが、同社の記録では車両が引き渡された1927年(昭和2年)7月、伊那電気鉄道松島工場製としており、譲渡の際、台枠、台車、電動機等を再用して車体を新造したものと思われる[注 2]。初代2については、その後消息不明。5については1927年7月に筑摩電気鉄道に譲渡され同社のデワ2となったが、いつの間にか後述の6の履歴を受け継ぎ、1918年(大正7年)製となっていた。

6
1918年5月9日設計認可の自社松島工場製[注 3] の電動貨車で、荷重は5t、最大寸法は長さ23ft6in×高さ10ft9 1/2in×幅7ftで、電動機は50PS×2である。1921年(大正10年)9月15日認可により、台車をブリル21Eに交換し、電動機も36PS×2個としているが、昇圧により使用されなくなり、1932年7月12日付けで廃車となった。
昇圧後の車両

1923年に実施された昇圧に伴い、電動車はすべて新製のボギー車に置き換えられ、従来の600V用電動車は、ボギー車3両(ホ1 - 3)が電装解除のうえ付随車として引き続き使用された以外は、使用が停止された。

1926年の第2次大改番以前は、電動車、付随車それぞれに1から付番されていたが、同改番以降は電動客車は「デ」、附随客車は「サ」を形式に冠し、形式ごとに番号を飛ばして付番するようになった。また、車体への標記は、等級用途等の記号を付加した「デハ」、「サハユニフ」等とされている。

電動車はすべて院電タイプの車体を持つ両運転台形、付随車はすべて制御回路の引き通しを設けず、電動車の牽引によって運行される「後付付随車」と呼ばれるもので、鉄道省の規程では電車に付されることのない緩急車を表す記号「フ」が記号の末尾に加えられている。
電動客車
デ100形・デ200形

1923年の1200V昇圧に伴って用意された両運転台のボギー式電動車で、デ100形3両(デハ100 - 102)、デ200形5両(デハ200 - 204)が汽車製造東京支店で製造された。


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