凡例伊達 邦成
伊達邦成
時代江戸時代 - 明治時代
生誕天保12年10月28日(1841年12月10日)
死没明治37年(1904年)11月29日
別名通称:靫負、藤五郎、安房
戒名後大雄寺殿天山慈照大居士
墓所伊達市霊園
官位安房守、従五位、贈従四位
幕府江戸幕府
藩仙台藩
氏族亘理伊達家
父母父:伊達義監、養父:伊達邦実
兄弟邦直、邦成
妻伊達豊子(伊達邦実次女)
子伊達基(もとい)、成子(佐竹義準の妻)、亀久子(亘理胤正の妻)、祐子(石川光輝の妻)
テンプレートを表示
伊達 邦成(だて くにしげ)は、江戸時代末期から明治時代にかけての仙台藩一門・亘理伊達家第14代当主。
戊辰戦争で新政府軍に敗れ、99%以上の知行を取り上げられたため、家臣団と共に北海道開拓に活路を求めた。開拓の功により、勲四等を叙勲され、男爵に叙せられている。
鹿島国足神社
祭主。のちにキリスト教徒(日本基督一致教会の信徒)[1]となったが、伊達神社および開拓神社の祭神ともなっている。仙台藩領において、岩出山伊達家当主・伊達義監の次男として生まれ、亘理伊達家第13代・伊達邦実の婿養子となった。伊達宗家は当初、邦成を一関藩田村家の養子にしようとしたが、邦実の未亡人である保子が反対して亘理家に入る事になり、「亘理伊達家の婿泥棒」と言われた。
亘理領主となり、戊辰戦争では海道筋に出兵した。藩主・伊達慶邦の命により和平交渉を担い、講和への道筋をつくった。
仙台藩降伏後、知行を23,853石から58石(従前の0.24%)へと減らされたため、数百名もの家臣団を養うことが不可能になり、家老・常盤新九郎(田村顕允)の意見により明治3年(1870年)から数次にわたって家臣らを率い、家族と共に北海道に移住、胆振国有珠郡(現在の伊達市)を開拓した。
明治9年(1876年)4月8日、国足神社建立に伴い、祭主として遷座祭を執行した[2]。一方、明治19年(1886年)に押川方義から洗礼を受け、日本基督一致教会の信徒となった[1]。明治25年(1892年)、開拓の功により、勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。
墓地は伊達市霊園にある。昭和10年(1935年)、有珠郡開拓の先覚者であり偉勲者であるとして、田村顕允と共に伊達神社に祀られた[2]。
栄典
1892年(明治25年)
7月19日 - 勲四等瑞宝章[3]
10月15日 - 男爵[4]
10月31日 - 従五位[5]
1915年(大正4年)11月10日 - 贈従四位[6]
系譜
父:伊達義監
養父:伊達邦実
養母:伊達保子
妻:伊達豊子(伊達邦実次女)
伊達基(もとい)- 第15代当主・男爵。妻は石川邦光の娘・昌
成子(佐竹義準の妻)
亀久子(亘理胤正の妻)
伊達成保
祐子(石川光輝の妻)
関連作品
小説
本庄陸男『石狩川』(1939年の作品、新日本出版社)
大山夏輝
日本の爵位
先代
叙爵男爵
(亘理)伊達家初代
1892年 - 1904年次代
伊達基
(伊達実元) - 成実 - 宗実 - 宗成 - 基実 - 実氏 - 村成 - 村実 - 村純 - 村好 - 村氏 - 宗賀 - 宗恒 - 邦実 - 邦成 - 基 - 成勲 - 廉夫
典拠管理データベース
全般
ISNI
VIAF
国立図書館
日本