伊達稙宗
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 凡例伊達 高宗 / 伊達 稙宗
長谷川養辰「伊達稙宗像」
仙台市博物館蔵)
時代戦国時代
生誕長享2年(1488年
死没永禄8年6月19日1565年7月16日
改名高宗(初名)、稙宗
別名仮名:次郎、号:受天
諡号直山公
戒名智松院殿直山円入大居士
墓所福島県福島市陽林寺
官位従四位下左京大夫
幕府室町幕府 陸奥守護
氏族伊達氏
父母父?伊達尚宗、母?積翠院[注釈 1]
兄弟稙宗、留守景宗、久松丸、最上義定継室
蘆名盛高娘・泰心院
中条定資娘、亘理宗隆娘ら
子屋形御前(相馬顕胤室)、蘆名盛氏正室、晴宗
大崎義宣実元二階堂照行室、
田村隆顕室、宗澄懸田俊宗室、
桑折宗貞、葛西晴清梁川宗清
村田宗殖、極楽院宗栄、亘理綱宗、
亘理元宗、大有康甫、越河御前(相馬義胤室)
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伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国戦国大名官位従四位下左京大夫伊達氏14代当主。伊達政宗の曾祖父。
生涯

長享2年(1488年)、13代当主・伊達尚宗の嫡男として誕生。慣例により11代将軍・足利義高(のちの義澄)から偏諱の授与を受けて高宗(たかむね、初名)と名乗った。

永正11年(1514年)、父の死去に伴い家督を相続して14代当主となる。同年、羽州探題最上義定長谷堂城にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に最上氏を支配下に置く。永正14年(1517年)、10代将軍[注釈 2]足利義稙の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、管領細川高国を通じて一字拝領を願い出て許され、偏諱を受けて名を稙宗に改めると共に、左京大夫に任官された[2][注釈 3]。左京大夫は、元来奥州探題大崎氏が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用すると共に、葛西氏岩城氏などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功した。

永正17年(1520年)最上義定が嗣子のないまま死去すると、義定未亡人を介して伊達稙宗に影響力を行使されることを嫌った最上の諸将が反旗を翻し、伊達氏と最上氏の対立が起こる。稙宗は破竹の勢いで上山城山形城天童城・高擶城(たかだま)を落とす[4][5]と翌大永元年(1521年寒河江を攻める。この時伊達軍は葛西・相馬・岩城・会津宮城国分・最上の軍勢を集結し、高瀬山(現・寒河江市高瀬山)から八幡原(現・寒河江市元町)にかけて陣を敷いた。一か月に及ぶ滞陣の間に伊達氏と寒河江氏の間で和議を結び、戦火を交えず伊達軍は引き上げた[6]。この戦いにより最上郡及び村山郡南部は伊達氏の傘下に入った。

大永2年(1522年)には室町幕府においては前例のない[注釈 4]陸奥守護に補任された[8]。大永2年12月将軍義晴より代始祝儀の返礼が届けられる[9]。翌大永3年(1523年)京都石清水八幡宮造営の奉加を命じられる[10]。ただし、稙宗が望んでいたのは大崎氏に代わる奥州探題就任であったと考えられ、これに対して室町幕府は足利氏一門ではない伊達氏の探題就任を拒否すると同時に、伊達氏が国人の格式であり続けることの不都合[注釈 5]は認めて、守護職に任命することによって「大名」の格式を与えることで稙宗を宥めようとしたと推測されている。ただし、この措置は稙宗を満足させるものでは無かったらしく、一時幕府との関係が悪化している[12]

天文元年(1532年)に居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移すと体制の強化に努め、天文2年(1533年)に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年(1533年)の『棟役日記』、天文7年(1538年)の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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