伊達村好
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 凡例伊達村好
時代江戸時代
生誕宝暦5年1月18日1755年2月28日
死没寛政7年7月12日1795年8月26日
別名英之介、安房、出雲、淡路(通称)、世雲(号)
墓所大雄寺(宮城県亘理郡亘理町
主君伊達重村
仙台藩
氏族伊達氏
父母父:伊達村実、母:側室・有慈院、養父:村純
兄弟村純、逸(田村村隆室)、豊(伊達村富室)
、吉(石川村煕室)、喜由(伊達村賢室)
、村好
子養子:村氏、子:福原資氏、榮(大條道英室)
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伊達 村好(だて むらよし)は、江戸時代中期の仙台藩一門第二席・亘理伊達家第9代当主。
生涯

宝暦5年(1755年)、亘理伊達家第7代当主・伊達村実の次男として生まれる。幼名は英之介。

明和4年(1767年)2月、亘理伊達家第8代当主の兄村純が隠居し、嫡子兵力がまだ幼いため、中継養子として家督を相続し亘理邑主となる。同年3月、藩主伊達重村の加冠により仙台城元服し、偏諱を受けて村好と名乗る。

安永2年(1773年)、藩政混乱を招いた「葛西川島事件」が起こり、同年閏3月、騒動の裁決を藩主重村に任された叔父伊達村良により、騒動の首謀者の奉行(家老)川島行信、若老葛西清胤等が知行召上、一門の村好も隠居を命じられた。養子の兵力(村氏)に家督を譲り、世雲と号した。安永5年(1777年)次男広三郎(資氏)が誕生する。

寛政7年(1795年)7月12日、死去。享年41。
子孫

実子資氏は準一家福原家を相続した。文化10年(1813年)奉行(家老)となる[1]。大條道英に嫁いだ長女榮(艶)の産んだ道bヘ、サンドウィッチマン伊達みきお高祖父道徳の父。NHK(『ファミリーヒストリー』)
参考文献

『伊達世臣家譜』

『仙台人名大辞書』

『宮城県姓氏家系大辞典』

『亘理町史』

脚注[脚注の使い方]^ 亘理町史










亘理伊達家9代当主(1767年 - 1773年)

伊達実元) - 成実 - 宗実 - 宗成 - 基実 - 実氏 - 村成 - 村実 - 村純 - 村好 - 村氏 - 宗賀 - 宗恒 - 邦実 - 邦成 -  - 成勲 - 廉夫


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