伊達杏子
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だて きょうこ
伊達杏子
出生地
日本東京都福生市
職業バーチャルアイドル
活動期間1996年 - 1997年
1999年
2001年 - 2002年
2007年
活動内容

1996年5月:記者発表
1996年10月:ラジオ 伊達杏子DK-96・G1グルーパーで活動開始
1999年:韓国デビュー
2001年:金沢工業大学HPで活動を再開
2007年:Second Lifeで活動を再開
著名な家族娘:伊達あやの
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伊達杏子(だて きょうこ)は、芸能プロダクションのホリプロに所属するバーチャルアイドルである。1996年に3DCGによるバーチャルアイドルとしてデビューした。3DCGで造形されたキャラクターながら、ホリプロの所属タレントとして扱われた。大きな人気を得るにはいたっていないものの、1996年のデビュー後活動休止を挿みつつ、2001年にデザインを変更した2代目が、2007年に3代目が再登場と、断続的に活動が行われている。
名称

伊達杏子は、「DK-96」というコードネームで開発が進められ、1996年に「伊達杏子 DK-96」という芸名でデビューした。「DK」はDigital Kidsの略、「96」は1996年版という意味である[1]。「伊達杏子」はDKを日本人らしい名前にしようと名づけられもので、公式プロフィールでは「伊達杏子」が本名とされていた[1]。デビュー翌年にはコードネームをバージョンアップして「伊達杏子 DK-97」となり、1999年に韓国デビューした際には「DiKi」という名前となっている[2]。2001年に登場した2代目は「伊達杏子 DK-2001」[2]。2007年に登場した3代目では名前は「伊達杏子」とされ、コードネームはつけられていない[2]

初代

伊達杏子 DK-96(1996年)

伊達杏子 DK-97(1997年)

DiKi(1999年)


2代目

伊達杏子 DK-2001(2001年)


3代目

伊達杏子(2007年)


初代

伊達杏子は、ホリプロ設立35周年を記念し、株式会社ビジュアルサイエンス研究所との共同で開発された[1]。プロデュースを担当したのはホリプロ創業者堀威夫の二男で、後に社長となる堀義貴である。

構想が生まれたのはデビュー前年の1995年のことである[3]、構想のきっかけは、当時進みつつあったメディアの多チャンネル化によりソフト不足が予想される中、時間に縛られず活動できるタレントを欲したことにある[4]。また、当時は恋愛シミュレーションゲームときめきメモリアル』などが人気を集め、ヒロイン・藤崎詩織などゲームのキャラクターが「バーチャルアイドル」と呼ばれタレントのような人気を集めるという状況が生まれていた[5][6]。ホリプロが3DCGによるバーチャルアイドルの開発に乗り出した背景には、こうした人気バーチャルアイドルによって既存の芸能界の領域が侵される懸念や[6]、アニメの声優やゲームのキャラクターが人気を集めるようになったのならCGのアイドルも受け入れられるだろうという見込みなどもあった[7]。堀は、1990年代初頭に、当時勤務していたニッポン放送ディレクターとして伊集院光のラジオ番組から誕生した架空のアイドル、芳賀ゆいの企画に途中から携わっており、このときの経験も活かされた[4][7]。なお、設定上の来歴では、福生駅前のハンバーガー店でアルバイトをしていた際にスカウトされたとなっている[8]

伊達杏子の開発にはホリプロの社員10人と技術スタッフ50人が投入され[9]、初期投資だけで数千万円がかかったという[5]。まず、堀らによって元となるイラストがデザインされ、それをきっかけに制作が始められた[10]。CGの制作では、CGアーティストの小坂達哉(KonKon)がモデリング担当として携わっていた。「声」は生身の人間が当てており、ホリプロの所属タレントや女性社員50人の中からアイドルらしい声を基準に選ばれた[8]。歌用と会話用で別の担当者を起用している[8]。ラジオなどで話す内容はホリプロ側で作成した[11][12]。体の動きには当時の最新の技術だったモーションキャプチャが使用され、ダンスのデータはアメリカの本場のダンサーから採られた[13]。伊達が活動するには、スタジオ出演なら数百万円と[5]膨大なコストがかかり、新人タレントに支払われるギャラには到底見合ないことが見込まれていたが、新しいジャンルを開拓する上での先行投資と考えられていた[14]。活動内容は、実際に行われたCDの発売やラジオ、テレビへの出演だけでなく、バーチャルライブの開催や、写真集の発売なども検討されていた[15]。ホリプロは伊達を、「病気をしない、スキャンダルもない、多チャンネル時代に対応して全世界同時に同じ時間に露出できる、声や歌などは世界中のどこの国の言語とも交換できグローバルな活動を、安く、早く、正確に表現できるといった利点を持つ、正に21世紀におけるマルチメディア時代に対応した『夢のタレント第1号』」と位置づけていた[16]。ただし、現実には売り込みをかけても動きの不自然さを指摘されてしまうような有様だったという[3]

当初は1995年秋のデビューを想定して宣伝計画を立てていたが[3]、開発が伸び、記者発表が1996年5月、実際に活動を開始するのは同年の末となってしまった。デビュー前から大きく注目され、海外メディアにまで盛んに取り上げられていたにもかかわらず、こうした遅れにより熱が冷めてしまったことも伊達が失敗した原因の一つとされる[3]。10月に、ラジオであれば声優を呼ぶだけでよいため、TOKYO FMのラジオ番組『G1 Grouper』にて、先に声だけで活動を開始[3]。11月2日にTBSの情報番組『ブロードキャスター』で動く映像と喋りをテレビ初公開[17]11月21日にはシングル「LOVE COMMUNICATION」でCDデビューしたが、デビューシングルの売り上げは3万枚足らず[18]であった。1997年には声が変わり、名称も「伊達杏子 DK-97」にバージョンアップし[11]、7月21日にシングルCD「TOUCH」を発売[19]。通産省(現在の経済産業省)のポスターや雑誌『じゃマール』の表紙を飾るなどの活動もあったものの、結局、伊達杏子はわずかな活動だけでデビューから数ヶ月ほどで姿を消すことになった[3]。ただし、伊達によるパブリシティ効果は非常に高かったと言い、以降のホリプロの新規事業開拓に役立ったという[3]

伊達杏子は、同時期、1996年12月5日にシングル「教えてMr.Sky」でCDデビューした『ときめきメモリアル』のヒロイン藤崎詩織と、同じバーチャルアイドルとして比較対象となったが、伊達の不振に対し、藤崎はヒットし、明暗を分けた。これは、旧来のアイドルの延長上の「究極のアイドル」でしかない伊達に対し、藤崎は新しいタイプのアイドルとしてアニメやゲームのファンの心をつかんだためと言われる[20]。なお、藤崎の歌手デビューを手がけたのは、渡辺プロダクションの関連会社で、創業者渡辺晋の長女渡辺ミキが社長を務めていたワタナベデジタルメディア・コミュニケーションズである[21]。当時は堀義貴と渡辺ミキが、ともに芸能界を代表するプロダクションの2世事業者として取り上げられることもあった[22]。また、ラジオでDJとして活動する伊達は、たとえ実際に成功したとしても、それは声の担当者が伊達の殻を脱ぎ捨ててひとり立ちする時にだろうとの指摘もあった[23]

1999年には、韓国でDiKiの名でデビューし、『Between』というアルバムをリリースしたが、成功はしなかった。


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