この項目では、江戸時代前期の大名について説明しています。戦国時代の同名の人物については「伊達忠宗 (戦国武将)
」をご覧ください。 凡例伊達 忠宗
伊達忠宗
時代江戸時代前期
生誕慶長4年12月8日(1600年1月23日)
死没万治元年7月12日(1658年8月10日)
改名虎菊丸(幼名)、忠宗
別名通称:総次郎
戒名大慈院殿義山崇仁大居士
墓所宮城県仙台市青葉区の感仙殿
官位正五位下・美作守、従四位下・侍従、越前守、左近衛権少将、陸奥守
幕府江戸幕府
主君徳川秀忠→家光→家綱
藩陸奥仙台藩主
氏族伊達氏
父母父:伊達政宗
母:愛姫(田村清顕の娘)
兄弟秀宗、五郎八姫、忠宗、宗清、津多、亘理宗根、宗泰、宗綱、宗信、宗高、牟宇姫、竹松丸、宗実、岑姫、宗勝、千菊姫
妻正室:振姫
側室:貝姫ほか
子鍋姫、虎千代丸、光宗、田村宗良、五郎吉、宗倫、綱宗、宗規、宗房、飯坂宗章
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伊達 忠宗(だて ただむね)は、江戸時代前期の大名。陸奥国仙台藩2代藩主。伊達氏18代当主。官位は従四位下・左近衛権少将、陸奥守。仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したため「守成の名君」と評された。 伊達政宗の次男(嫡男)として大坂城下で誕生した。母は田村清顕の娘・愛姫。伊予国宇和島藩初代藩主・伊達秀宗は異母兄。 慶長12年(1607年)、この年誕生した大御所・徳川家康の五女・市姫との婚約が成立したが、市姫は3年後に夭逝したため、代わりに池田輝政の娘・振姫(家康の孫娘)が2代将軍・徳川秀忠の養女として嫁いだ。慶長16年(1611年)、秀忠から松平の名字を与えられる[1]。庶長子であった兄の秀宗は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に父・政宗と共に参陣し、戦後に家康から伊予宇和島10万石を与えられて別家を興したため、忠宗が伊達宗家の後継者と定められた。 元和7年(1621年)、砲術を学びたいということで毛利高政のもとに入門して奥義を授けられ、15間(約27メートル)の距離で下げ針を撃ち落とすほどの鉄砲の名手となった[2]。
生涯