伊達宗高
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 凡例伊達宗高
時代江戸時代前期
生誕慶長12年(1607年
死没寛永3年8月17日1626年10月7日
改名長松丸(幼名)、宗高
別名右衛門(通称
戒名龍島院殿涼山英清大居士
墓所宮城県柴田郡村田町の龍島院
官位従五位下右衛門大尉諸大夫
主君伊達政宗
陸奥仙台藩
氏族村田伊達家
父母伊達政宗於山方
田手宗実
兄弟秀宗五郎八姫忠宗宗清津多
亘理宗根宗泰宗綱宗信、宗高、
牟宇姫、竹松丸、宗実岑姫宗勝
千菊姫
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伊達 宗高(だて むねたか)は、江戸時代前期の陸奥国仙台藩一門・村田伊達家当主。官位従五位下右衛門大尉
生涯

慶長12年(1607年)、仙台藩主・伊達政宗の七男として仙台城にて誕生した。幼名は長松丸。母は於山方柴田宗義の娘)

慶長18年(1613年)、柴田郡小泉を領していた一族・田手宗実(伊達氏庶流)の養子として送り込まれ、田手氏の名跡を継いだ。この時、田手氏庶流を含む宗実の家臣団の一部が宗高の家中に編入され、宗実ら元々の田手氏は小泉氏へと改めさせられたが、宗実の所領は宗高には引き継がれず(宗実の所領はそのまま安堵され、のち実子の田手高実に引き継がれた)、新たに柴田・刈田2郡に合わせて3万石を拝領し、村田城を居城とした(村田伊達家)。

元和5年(1619年)11月26日、仙台城で長松丸は元服。右衛門宗高と名付けられる。祝儀として政宗より御腰物備前兼光と御脇指保昌五郎貞吉を与えられる。右衛門宗高は太刀1腰と馬1頭を献上する。この時、宗高の家臣の小泉肥前と上郡山常為も太刀を1腰ずつ献上した。

元和9年(1623年)4月16日、刈田岳が噴火し、噴石・降灰などにより伊達領内の田畑に甚大な被害が生じる。同年12月17日からは鳴動が続くようになり、年が明け寛永元年(1624年)になっても噴火は収まる気配を見せなかった。

寛永元年(1624年)10月5日、政宗は人の易者・王翼に命じて刈田岳で祈祷を行わせることにし、宗高を藩主名代として遣わせた。宗高と王翼は刈田岳の火口付近に祭壇を設け、噴煙と降下物に曝されながらもこれに耐えて祈祷を行った。王翼をして神に祈らしむること7日、それからほどなくして噴火が終息に向かったため、人々は宗高の真心が天を動かしたのだと噂した。また、王翼は此度の功績により政宗より賞され、300石を賜った。

寛永3年(1626年)閏4月6日、兄の忠宗宗泰と共に参勤として仙台を出発、同月13日に江戸の伊達屋敷に着く。宗泰と宗高は初めての江戸であった。大御所徳川秀忠と3代将軍・徳川家光の両御所に拝謁する。このとき兄の宗泰には、両御所より御腰物青江左文字を下賜された。

寛永3年(1626年)5月5日、父政宗は、京都に上洛する秀忠と家光より御供を命じられ、家光参内への随従を命じられたことと、宗泰と宗高が両御所に御目見したことの旨の書を、仙台にいる伊達成実に送る。

寛永3年(1626年)5月20日、政宗は両御所の出発に先立ち、先に上洛のために江戸を出発、忠宗と宗高も御供する。伊達家からは、片倉重綱茂庭良綱石母田宗頼らも同行し、その御供の行列は、鉄砲100丁、弓100張、鑓100本、御走組などの9番備えからなる、約500名程の部隊行列であった。一方、宗泰は御供を命ぜられなかったので、仙台に下った。

政宗は上洛の道中、和歌を3首詠んだ。最熱き比(ころ) ほひ夜をこめ 箱根山を越えるとて

短夜(みじかよ)の 明(あけ)もますらん 箱根山 木深(きふか)き陰(かげ)に 夏ぞ忘(わす)るる
富士山

見るたびに 景色ぞかわる 富士の山 初て向かう 心地(ここち)こそすれ
清見関

名所(などころ)の 清見(きよみ)が関と 聞(きけ)しかと 影はとまらん 山の端(は)の月

寛永3年(1626年)6月19日、京都三条塩屋町御屋形に到着。忠宗は妙満寺に、宗高は二条要法寺に寄宿する。なお、大御所・徳川秀忠と将軍・家光は、次の日の20日に江戸を出発し、京都に向かったという。

寛永3年(1626年)7月10日、宗高は諸太夫に仰出され、従五位下右衛門大尉に叙任される。政宗と宗高は即御礼として巳の刻(前8時)に登城し、巳下刻(午前11時)に戻る。

寛永3年(1626年)8月14日、政宗が優雅の交遊に在京の日々を送っているこの頃、宗高は疱瘡を患う。それを聞いた徳川秀忠より政宗の元に高木九兵衛を上使として見舞が遣わされる。同月16日、政宗は見舞の礼を土井利勝を通じて述べる。しかし、治療の甲斐もなく、宗高は同月17日に宿所の二条要法寺にて病死した。享年20。

宗高の遺骸は、ただちに伊達家家臣の武山重信と堀越重治が随行し、奥州柴田郡村田城へ下った。

同月20日、徳川秀忠より、伊達宗高の卒去について政宗に哀悼の意があり、宿には多数の人が弔問に訪れた。翌日の21日、上意をもって、政宗は権中納言従三位に、忠宗は従四位下右近衛権少将に任叙され、伊達秀宗従四位下に叙された。


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