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伊達宗城
時代江戸時代後期 - 明治時代中期
生誕文政元年8月1日(1818年9月1日)
死没明治25年(1892年)12月20日
改名山口亀三郎→伊達亀三郎→兵五郎→宗城
戒名靖国院殿藍山維城大居士
墓所東京都台東区の谷中霊園
愛媛県宇和島市の等覚寺
宇和島市の南予護国神社
官位従四位下・大膳大夫、遠江守、侍従、従四位上・伊予守、左近衛権少将、議定
民部卿兼大蔵卿、欽差全権大臣、従一位
幕府江戸幕府
主君徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇
藩伊予宇和島藩主
氏族山口氏→伊達氏(宇和島伊達家)
父母父:山口直勝、母:蒔田広朝の娘
養父:伊達寿光、伊達宗紀、養母:鍋島観
兄弟山口直信、宗城、宗孝
妻正室:鍋島斉直の娘・益子
側室:栄信院(武田氏)、多川(大岡氏)、梅村氏
子真田幸民、宗敦、初子、敏、奥平昌邁、煕、順、瀧脇信広、幾、牧野忠良、宗倫、泰、宗曜、蒔田広城
養子:宗徳
特記
事項幕末の四賢侯の一人
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伊達宗城
伊達 宗城(だて むねなり)は、江戸時代後期の大名、明治初期の政治家、華族。位階は従一位、勲等は勲一等。江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主だったが、維新後に議定、外国事務総督などを務めて外交担当者となった。また民部卿・大蔵卿、清国への欽差全権大臣などを歴任した。 文政元年(1818年)、大身旗本・山口直勝の次男(祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった)として江戸にて誕生した。母は蒔田広朝 天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。 福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らと共に隠居謹慎を命じられた。 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対している。その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。 慶応2年(1866年)には、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤル(英語版
生涯
藩政時代
明治維新以後正装の伊達宗城(1891年撮影)
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。