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凡例伊達周宗
伊達周宗像(仙台市博物館蔵)
時代江戸時代後期
生誕寛政8年3月2日(1796年4月9日)
死没文化9年4月24日(1812年6月3日)(公式記録)
改名政千代(幼名)、周宗
別名大屋形様(隠居後)
戒名青龍院殿故陸奥国主紹山隆公大居士
墓所宮城県仙台市の経ヶ峯伊達家墓所
官位なし
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
藩陸奥仙台藩主
氏族伊達氏
父母父:伊達斉村、母:鷹司誠子
兄弟周宗、斉宗
妻婚約者:徳川家斉の3女・綾姫
2番目の婚約者:徳川家斉の11女・浅姫(いずれも正室予定の婚約者)
子養子:斉宗
特記
事項特例により御目見なしで17歳での隠居が許可された藩主[注釈 1]。一説に死去は公式記録の3年前とも。在職中は2度末期養子の禁に抵触。
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伊達 周宗(だて ちかむね)は、江戸時代後期の大名。仙台藩9代藩主。伊達氏25代当主。仁孝天皇のはとこにあたる。 寛政8年3月2日(1796年4月9日)、8代藩主・伊達斉村の長男として江戸にて誕生した。母は鷹司輔平の娘、誠子(のぶこ)。 生母の誠子は産後の肥立ちが悪く、同年4月16日に23歳で死去した。さらに同年4月21日には袖ヶ崎屋敷の祖父・伊達重村が死去した。同年7月27日に袖ヶ崎の下屋敷に移るが、同じ日に国許で父が死去した。こうして生後1年足らずの政千代(周宗)が仙台藩主を相続することになった。 本来なら将軍の御目見を得た後継者でないため相続できないところであったが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上で、親族の若年寄・堀田正敦[注釈 2](近江堅田藩主。のち下野佐野藩主)や土井利謙(三河刈谷藩主)、重村正室で養祖母の観心院との協議の結果、8月15日に幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で10月29日に襲封した。併せて11代将軍・徳川家斉の三女である綾姫と婚約した。 観心院が周宗の養育と補佐を行い、その観心院と親戚大名の土井利謙や陸奥一関藩主・田村村資などとの相談の結果、堀田の後見を受けることとなった。ただし、堀田の役割はあくまで幕府と藩内の双方に対して藩の政治的不安を解消させることが狙いであり、観心院は藩政は奉行の中村景貞(日向)および大内義門(縫殿)による補佐、藩内警護は一門家の伊達村氏(安房)、伊達村常(安芸)、伊達村幸(式部)により行うよう、重臣には重要案件は宇和島藩主・伊達村寿などの親類衆に相談するように命じ、政千代(周宗)の補佐体制が固まる。 誕生と跡目相続の翌年の寛政9年(1797年)には、仙台藩において史上最大の百姓一揆が発生した。これは、前代で失敗した寛政新法の結果に行われた反動行政により、行政改革や冗費削減、役人の綱紀粛正の不徹底が原因だったと『仙台市史』では記されている。この一揆に触発されて、上級藩士61人を含む2033人の藩士による「さむらい一揆」も計画された。なお、同年中に綾姫が死去する。 文化2年(1805年)に養育と補佐に携わってきた観心院が死去し、代わって実の祖母の正操院(喜多山氏)が補佐と養育に携わる。
経歴