伊達吉村
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 凡例伊達 吉村
伊達吉村像(仙台市博物館蔵)
時代江戸時代中期
生誕延宝8年6月28日1680年7月23日
死没宝暦元年12月24日1752年2月8日
改名助三郎(幼名)→村房(初名)→吉村
別名袖崎隠公
戒名続燈院殿獅山元活大居士
官位従四位上左近衛権中将陸奥守従三位
幕府江戸幕府
主君伊達綱村徳川綱吉家宣家継吉宗
陸奥仙台藩
氏族伊達氏宮床伊達家→伊達宗家)
父母父:伊達宗房 母:片倉松子
養父:伊達綱村
兄弟吉村、村興
正室長松院久我通名の娘)
側室清涼院、円球院、恵心院
子村匡、菊次郎、村風、宗村田村村隆村良、富之助、英姫、和姫、富姫、橘姫、敏姫、三保姫百合姫郷姫、某
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伊達 吉村(だて よしむら)は、江戸時代中期の大名仙台藩5代藩主伊達氏21代当主。始め仙台藩一門宮床伊達家2代当主官位従四位上左近衛権中将陸奥守従三位

仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏[注釈 1]出身の藩主である。また、歴代仙台藩主中で最長在職の藩主であり、その治世は40年に及んだ。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから、仙台藩「中興の英主」と呼ばれる。
生涯
誕生から藩主就任まで

延宝8年(1680年6月28日、宮床邑主・伊達宗房(2代藩主・伊達忠宗の八男)の嫡男として、陸奥国東磐井郡大原村(現岩手県一関市大東町大原)に生まれ、同村八幡寺にて教育を受ける。母は片倉景長の長女・松子。幼名は助三郎。

貞享3年(1686年1月13日、父・宗房の死により家督を相続する。元禄3年(1690年12月元服し、従兄で藩主の伊達綱村から偏諱を賜り村房(むらふさ)と名乗る。元禄6年(1693年)の一門による藩主・綱村への諫言書提出には年少のため名を連ねていない。

元禄8年(1695年3月、陸奥一関藩主・田村建顕の養嗣子に迎えられることになると、一家・小梁川家を継いでいた弟の宗辰(後の伊達村興)を呼び戻して宮床伊達家の家督を譲り、村房は一門上座の家格を与えられて5月には江戸の一関藩邸に入ったが、正式に養子縁組幕府に届出る前に、跡取りのいなかった綱村の養嗣子に迎えられることになった。また、田辺希賢が侍講となる。

元禄9年(1696年11月に藩主家の慣例により5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜って吉村に改名し、元禄15年(1702年4月26日には久我通名の娘・冬姫と結婚した(冬姫は通名の弟・通誠の養女として嫁ぐ)。元禄16年(1703年)に養父・綱村が隠居に追い込まれると、家督を継いで仙台藩主となった。
藩主としての治世
襲封当初の状況

宝永元年(1704年5月21日、吉村は藩主となって初めて仙台に入ったが、この時点で仙台藩の財政は綱村の浪費と乱脈政治によって完全に破綻しており、吉村は直ちにその建て直しに取り組まねばならなかった。

まず対応を迫られたのが、綱村押込の直接の原因となった藩札の後始末である。宝永2年(1705年1月に藩札の発行を停止したものの、既に出回っている藩札を回収するためにはその代価となる正金を用意しなければならず、翌宝永3年(1706年9月には、このままでは参勤交代の免除を幕府に願い出る他ないとして知行高30石以上の藩士に対して手伝金の供出を命じ、年貢の半額を物納するか石高に応じた額の銭を納めるかを選択させた。こうして10月に藩札の通用がようやく停止したが、この年の仙台藩の赤字額は単年度で12万3000両にも達した。

このように吉村襲封当初の仙台藩の財政状態は、綱村が残した莫大な負債に加えて、その尻拭いに要する費用がさらに赤字を雪だるま式に増幅させるという悪循環に陥っており、また財政再建の最中にあっても正徳元年(1711年)11月には幕府から命じられた日光東照宮普請のため、さらに江戸・京都の商人から7万3700両の追加借入を余儀なくされるなど、極めて厳しいものであった。
領内総検地計画とその失敗

こうした状況を少しでも改善するため、享保10年(1725年)年頭には寛永以来実施されなかった領内総検地「大改」を行なうことを表明した。これは、耕地所有者の異動・新田の隠田化・普請や荒れ地化による耕地面積の変化などを正常化することで土地制度の根本的立て直しと年貢増徴を目指したものであった。しかし、隠田が不作時に年貢負担の不足分を補う機能を果たしていること、一門など上級家臣のみならず中・下級家臣に対しても地方知行制が行なわれていた仙台藩においては下級給人や陪臣が知行地の一部を直接耕作することで家計を維持していることから、「保国寺」名義の意見書に代表される一門層を始めとする家臣側の反発が強く、半年後に事実上中止となり、翌年には検地の担当者であった出入司の岩淵安次・木戸有延が責任を取らされる形で処罰されている。以後、仙台藩においては、領内総検地が実施されないまま幕末を迎えることになる。
役職整理、貨幣鋳造、買米仕法

一方で役職の整理を進め、享保11年(1726年)に屋敷奉行と兵具奉行を兼務とし、普請奉行を廃止して、その配下の普請方を出入司の直轄とした。また、享保14年(1729年)には郡奉行を8人から4人に減員し、享保16年(1731年)には龍ヶ崎奉行を廃して職務を郡奉行の兼役とした。

これと並行して享保12年(1727年)に仙台領産のを使用することを条件に、幕府の許可を得て銅銭寛永通宝)を石巻で鋳造し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ江戸に廻漕して換金した。18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回ったのほとんどが、仙台産であったと言われているほどである。享保17年(1732年)、西国享保の大飢饉が発生すると、この年奥州は豊作であったため、大量の米を江戸に送って売りさばき50万両を超える収益を上げた。このため藩財政は一気に好転し、ようやく単年度での黒字を実現できるようになった。
その他

元文元年(1736年)に養賢堂の前身となる学問所を創立した。
隠居後

寛保3年(1743年)7月、四男・久村(宗村)に家督を譲って隠居し、袖ヶ崎の下屋敷に移った。宝暦元年12月24日1752年2月8日)死去。


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