「伊豆半島東方沖地震」とは異なります。
伊豆半島沖地震
特に甚大な被害を受けた南伊豆町中木地区に建立された慰霊碑
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日1974年5月9日
発生時刻8時33分27.7秒 (JST)
震央 日本 駿河湾 (震央地名)[1]
静岡県石廊崎南南西沖5km
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度37.8分 東経138度46.8分 / 北緯34.6300度 東経138.7800度 / 34.6300; 138.7800
伊豆半島沖地震(いずはんとうおきじしん)は、1974年(昭和49年)5月9日に静岡県の伊豆半島沖で発生した地震。賀茂郡南伊豆町の中木地区を中心に大きな被害を出した[3]。 1974年(昭和49年)5月9日08時33分27秒に発生した。過去に地震被害の記録のない地域で発生した地震であり[2]、震源は北緯34度37分48秒、東経138度46分48秒の石廊崎沖南南西約5km[4]であった。やや北方の賀茂郡南伊豆町の海岸付近とする説もある[5]。震源の深さは9kmで地震の規模を示すマグニチュードはMj 6.9[1](Mw 6.4[6])。静岡県の石廊崎測候所(南伊豆町)で最大震度5を観測し、死者30名、全壊134棟など大きな被害を出した。 この地震以後、伊豆半島付近の地震活動が活発になり、1976年(昭和51年)に河津地震 地震により、石廊崎から北西方向へ延びる長さ約5.5kmの石廊崎断層 震度3以上を観測した地点は次の通り[1]。 震度都道府県観測所 最大有感地点は北海道の帯広市であるが、このような飛び離れた有感地点を除いた最大有感距離とマグニチュードとの関係式から求めたマグニチュードはM=6.0-6.1であり、気象庁マグニチュードに比べかなり小さい。また、同程度の規模の1963年越前岬沖地震や1969年男鹿半島沖地震
概要
震源断層
震度
5静岡県石廊崎
4静岡県網代・三島・静岡
千葉県館山
東京都大島・新島
神奈川県横浜
3静岡県浜松
千葉県銚子
東京都東京・三宅島
群馬県前橋
埼玉県秩父
山梨県甲府・河口湖
長野県諏訪・飯田・三峰川通報所
愛知県名古屋
被害石廊崎断層の地形図
この地震による被害はほとんどが南伊豆町に集中した。その中でも中木地区は、集落の裏山である城畑山(標高150 m)の斜面が幅60 m、長さ350 mにおよぶ山崩れを起こし、厚さ10 m近くの土砂が地区内を埋めた[8]。この時に崩れた土砂の量は約5万m3におよび[9]、山裾の28戸が土砂崩れに飲み込まれ[9]。この山崩れでは27人が生き埋めとなり、後日、全員の死亡が確認された。半島南部の山崩れの多くは凝灰岩質の急傾斜地や崖で発生していた。また、内陸部では蛇石火山の噴出物の急傾斜地が多く、いずれも過去に崩落を起こしていた場所が多い[10]。また、埋没した家屋から火災が発生し、2次被害が拡大した[2]。
地震が発生した朝8時半過ぎ、地元の漁師はすでに漁に出た後であり、下田市などに通勤・通学する者たちも家を出た直後であった。このため生き埋めになったのは、家に残っていたお年寄りや主婦、幼児が大半であった。子供たちだけが残されるケースもあれば、両親や妻子を亡くし、働き手だけが残されるケースもあった。さらに、漏れたプロパンガスに引火したことにより、埋没した家屋から火災が発生し、数日間燃え続けた。
石廊崎では断層直上の石廊埼灯台が崩壊し、航行中の船舶に方位信号を送ることができなくなった。南伊豆町の東に位置する下田市も人的被害はなかったが、多くの建物が損傷した。家屋の瓦は軒並み落下し、旅館街のブロック塀が倒壊した。
被害の総計は、死者30名、負傷者102名、家屋全壊134戸、一部損壊240戸、全焼5戸。山崩れ・崖崩れは101箇所であった。 天城山の南西地域の下賀茂温泉など、賀茂村・河津町以南の源泉では、全般的に温度もしくは湧出量の増加がみられた事が報告されている。また、天城山以北では伊東温泉と湯ケ島温泉 城畑山の崩壊によって特に甚大な被害を受けた南伊豆町中木地区では震災後、城畑山そばに「中木記念公園」が整備され、犠牲者を追悼する慰霊碑が建立されている[12]。
温泉への影響
震災後