伊藤 雋吉(いとう しゅんきち[1][注釈 1]、天保11年3月28日[1](1840年4月30日[2]) - 大正10年(1921年)4月10日[1])は、日本の海軍軍人、茶人、華族。海軍次官、貴族院議員。海軍中将正二位[3]勲一等功三級男爵。 丹後田辺藩の下士、伊藤勝介の長男[1]。丹後国加佐郡田辺城下(現在の京都府舞鶴市)に生まれる[3]。幼少より学問に優れ、藩命により江戸に遊学して大村益次郎に師事し、兵学や数学を学ぶ[3]。 明治維新の後、兵部省出仕、海軍操練所出仕、海軍兵学寮中教授(以上は文官)を経て、1871年(明治4年)、海軍少佐(武官)に任官すると同時に「春日」艦長[1]。 「日進」副長を経て、1872年(明治5年)に海軍中佐に進級すると同時に「筑波 」艦長[1]。その後、海軍兵学校監学課長、海軍兵学校長代理、海軍兵学校次長、「金剛」艦長を歴任し、1878年(明治11年)に海軍大佐に進級[1]。海軍兵学校長に転じ、1882年(明治15年)に海軍少将に進級[1]。同年、折から発足した共同運輸会社の社長に現役海軍少将のまま就任[1]。その後、横須賀造船所長、海軍省艦政局長[注釈 2]、海軍参謀部長[注釈 3]、海軍省第二局長[注釈 2]を歴任し、1890年(明治23年)5月に海軍次官に就任、同年9月に海軍中将に進級[1]。1893年(明治26年)から2年間は海軍省軍務局長を兼ねる。1895年(明治28年)に男爵[1]。1898年(明治31年)、8年以上務めた海軍次官を退く[9]と同時に予備役編入[1]。当時の海軍内は薩摩閥が強く、海軍大将に昇進する余地はなかった[10]。 1899年(明治32年)7月18日[11]から1921年(大正10年)に薨去するまで貴族院議員[1]。墓所は品川の海晏寺。 舞鶴藩出身で華族となったのは、旧藩主の牧野家(子爵)と伊藤家(男爵)のみであった[3]。1988年(昭和63年)、舞鶴市内の生誕地跡に、伊藤の顕彰碑が建立された[3]。 草創期の海軍きっての能書家であり、軍艦の艦尾の艦名表示(ひらがな)に使う、いろは48文字を揮毫した[12][13]。以来、帝国海軍・海上自衛隊を通じて、伊藤の揮毫した文字が艦名表示に使われ続けている[12]。 茶人としても知られ、宗幽と号した。1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会
経歴
書家・茶人として
栄典
位階
1873年(明治6年)6月25日 ? 正六位[14]
1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[15]
1890年(明治23年)10月8日 - 従三位[16]
勲章等
1892年(明治25年)5月28日 - 勲二等瑞宝章[17]
1895年(明治28年)
8月20日 - 男爵・功三級金鵄勲章・旭日重光章[18]
11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[19]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[20]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[21]
外国勲章佩用允許
1885年(明治18年)5月30日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第一等勲章[22]
1895年(明治28年)10月9日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール[23]
親族
長男 伊藤安吉(海軍造機少将)[1]
注釈^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では「雋吉」の読みを「としよし」としている。
^ a b 1886年(明治19年)2月に設置された海軍省艦政局[7]、1889年(明治22年)3月に設置された海軍省第二局[7]は、いずれも海軍艦政本部の前身[8]。
^ 海軍参謀部(明治22年3月設置)は、海軍軍令部(明治26年5月設置)の前身[4]。