伊藤雄之助
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いとう ゆうのすけ
伊藤 雄之助
左側で巡礼弟長松(金沢ヨシヒロ)を背負う男が伊藤雄之助
本名伊藤 嘉朗(いとう よしろう)
別名義澤村 雄之助
ゴテ雄 (愛称
生年月日 (1919-08-03) 1919年8月3日
没年月日 (1980-03-11) 1980年3月11日(60歳没)
出生地 日本東京市浅草区
ジャンル俳優
活動期間1924年? - 1980年
活動内容映画テレビドラマ舞台
配偶者桐丘峯子
著名な家族七代目澤村訥子(祖父)
初代澤村宗之助(父)
二代目澤村宗之助(兄)
伊藤寿章(弟)
伊藤高(息子)
伊藤照子(娘)
主な作品
プーサン
気違い部落

 受賞
ブルーリボン賞
助演男優賞
1962年忍びの者
その他の賞

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伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう よしろう)、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本俳優。「ゆうのすけ」は雄之助・雄之弼・侑之助でクレジットされている映画もある。

兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。
来歴・人物

1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。訥子は養父の死後小芝居の大立者となり、雄之助出生時もなお活躍中であった。

1924年4月、満4歳8カ月で“澤村雄之助”の芸名を名乗り、父の舞台である四谷の大国座で初舞台を踏む。本来初舞台披露が行われるはずの帝国劇場は前年の関東大震災で焼失し、再建中であった。しかし、初舞台の6日目に父が舞台で急逝した。雄之助ら遺児3兄弟は祖父の世話を受けることになったが、祖父が2年後に亡くなると親戚中から冷遇され、さらに雄之助は他の兄弟たちと比べのろまで不器用だったことから“紀ノ国屋の場違い小僧”と罵られるなど、苦労の多い幼年期を過ごした。

教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎に入れられ、成績優秀で将来は教師になることを望んでいたが、慶應義塾普通部1年の夏に母が3万円ほどの借金を遺して病死したため学業中断を余儀なくされ、「澤村兄弟プロダクション」を組織して芸能活動を再開した。1934年東京宝塚劇場開場と同時に公募された専属俳優に兄弟とともに応募、「東宝専属男女優」第1号の1人となった。この一座はのちに「東宝劇団」と名づけられたが、この劇団では六代目坂東蓑助[注釈 1]ら先輩役者との対立もあり、辛酸を嘗めた。とりわけ六代目簑助からは厳しい態度で臨まれ、伊藤自身がノイローゼに追い込まれたほどで、六代目蓑助を刺し殺して自らも自殺しようと思いつめたこともあるという[1]。その最中に若手勉強会に加わったことをきっかけに、リアリズム演劇に惹かれ、初めて演技することの喜びを感じたという。

1940年に陸軍に応召、1943年に一等兵で除隊されるまでに中国大陸で兵役に就く。上官の大便が入った浴槽で入浴することを強要されるなど、ここでも冷遇を受けた[2]。その後は第2次東宝劇団に参加、小夜福子組の移動演劇隊に加わって山形県を巡業中に終戦を迎える。1946年に演劇隊を解散し、東京に戻り八田元夫の演劇研究所に入ってからは、スタニスラフスキー・システムによる演技を学ぶ。

映画は1932年に『少年諸君』で映画デビューしているが、本格的な映画出演は戦後からで、義兄である佐伯清の薦めで1946年に東宝撮影所へ入社する。特に1949年に公開された『野良犬』(監督・黒澤明)では、端役でありながら印象的な演技を見せた。その後東宝争議が始まったために東宝を退社し、新東宝、綜芸プロなどに所属。この時期は市川崑作品の常連で、主演をつとめた社会風刺喜劇『プーサン』(1953年)は、監督ともども出世作となった。

1954年よりフリー。早い段階でフリーとなったため、テレビドラマにも1950年代から多くの作品へ積極的に出演した。

代表作に『巨人と玩具』『侍』『しとやかな獣』など。特徴のある顔とアクの強い演技で多数の映画で名脇役として活躍、『椿三十郎』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示した。一方で『気違い部落』『ああ爆弾』などでは主演として鮮烈な印象を残した。1969年6月、歌舞伎座の舞台[注釈 2]に出演中に脳溢血で倒れ[3][4][5]、半身不随となるも懸命なリハビリの結果、翌1970年には『橋のない川 第二部』(監督・今井正)にて俳優活動を再開した[6]。まだ仕事復帰は医師から厳重に止められており、文字通り命懸けの演技であったという[6]。再起不能とも言われた状態からの復帰直後には「“絶望とはおろか者の結論”とはうがったことばですね。人間、あきらめちゃだめです。努力すれば必ず道はひらけますよ。この通りあたしがなおったんですから」と述べている[5]。晩年も『太陽を盗んだ男』では日本兵の軍装で皇居に突撃しようとするバスジャック犯役で怪演を見せるなど、多数の映画・ドラマなどに出演した。西光寺にある伊藤雄之助の墓

1980年3月5日、療養で伊東市の温泉へ行くが、翌3月6日になって容態が悪化、そのまま伊東市内の病院に入院。3月11日に心臓発作で死去。60歳没。同年公開の『戒厳令の夜』が遺作となった。

子どもの頃から油絵を描くなど絵を描くことが好きで、寸暇を惜しんでスケッチをして歩くのが趣味だった[7]

芝居に対する執念はすさまじく、伊藤と同じ事務所に所属していた時、伊藤への興味から伊藤の関西公演に同行して共に生活した俳優梅津栄は、ある夜明けに隣室の伊藤が起きているのに気付き、「もう起きていらっしゃるんですか」と言おうと襖を開けたが、本を前に何ごとか考えている伊藤の姿に「声をかけるきっかけさえつかめない位のきびしさがあるんだよね...。何、考えてらしたんだろうねェ。...やっぱり、気違いなんですわな。おそらく何かこう、次の作品のヒントかどうかわかんないけど、空気がピーンと張りつめててね、もうね、声かけられなかったですよ。これだっ!って思ったわな」と述懐している[8]。また気骨ある言動で知られ、ゴテ雄のあだ名がつくほどであった。1968年には幼少期から受けた冷遇などを元に、映画界の因習について厳しく批判したエッセイ『大根役者・初代文句いうの助』[9] を執筆したために映画界から干されるなど、苦労の多い役者人生だった。六代目尾上菊五郎について、「六代目亡きあと日本には役者はいない」と言うほどに深く尊敬していた[5]

墓所は西光寺 (墨田区)にある[10]
出演作品
映画

少年諸君
(1932年、兄弟プロダクション)

少年忠臣蔵(1933年、兄弟プロダクション) - 吉良上野介

楠正成(1934年、太秦発声映画) - 沢上錦吾 

かけ出し時代(1947年、新東宝) - 松浦記者

人間模様(1949年、新東宝) - 狩野龍馬

野良犬(1949年、新東宝)

銀座三四郎 (1950年、新東宝)


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