伊藤長七
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いとう ちょうしち
伊藤 長七
府立五中校長時代の伊藤長七
生誕1877年4月13日
日本長野県諏訪郡四賀村
死没 (1930-04-19) 1930年4月19日(53歳没)
職業教育者
著名な実績東京府立第五中学校の初代校長として大正自由教育運動を担う
配偶者ふゆ
親伊藤孫右衛門・りか
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伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動(欧米では「新教育運動」)を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者として知られる。
生涯
生い立ち伊藤長七の生まれ育った諏訪

明治10年(1877年)4月13日、長野県諏訪郡四賀村五八五七番地(現・諏訪市四賀普門寺)で、富農の伊藤孫右衛門の三男として生まれる。母は河西兵四郎の長女・りか。長七が3歳のときに母が死去したため、祖母のなかに育てられた。

幼少より神童と囃され、入学年齢よりも1年早く就学した。上桑原学校初等科を経て、1888年、郡立諏訪高等小学校3年に編入。同級生に矢島音次、島木赤彦、三沢背山らがいた。長七はそこで、儒学に精通する三輪三吉の教えを受けた。後の回想記において、高等小学校時代を「当年の日本教育界にあって天下一品ではなかっただろうか」と振り返っている。

1890年、高等小学校卒業後に、諏訪郡育英会(後の長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校の前身母体)に二回生として入学。高等小学校の級友であった矢島音次、島木赤彦、三沢背山とは引き続き同級であった。

育英会卒業後、1891年より3年間、授業生(後の代用教員)として四賀小学校、高島小学校で教師の補助を務めた。

1894年長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に諏訪郡の薦挙生として入学。同級生に矢島音次、島木赤彦、太田水穂などがいた。また、後輩で同じ諏訪郡四賀村出身の北沢種一とも交友があった。長七はこの頃より、当時の教育界の保守的な風潮や形式的教育を批判し、教育革新運動に傾倒していく。学内では教育革新の声を挙げる第一人者と目され、師範の学友会の会合では、小学校長を招き、面前で旧式教育や教育界の停滞を痛烈に批判した。長七の教育思想の源流が、師範学校時代に確立していった。親友であった太田水穂は、当時の長七について「片手には藤村の詩を携え、片手にはヘルバルトの教育書を抱え、詩歌の心を辿りながら、吾等の一団はいつのまにか教育の改革を叫びつつ合った。」と語っている[1]



諏訪・小諸での教育実践と対立当時の諏訪高等小学校の校舎

1898年、上諏訪・四賀組合立諏訪高等小学校の教諭に着任すると、新進気鋭の青年教育者として、新教育を自ら実践していった。

登山遠足、野営活動、雪中行進、雪投げ合戦、氷上運動、さらに、長七の主唱で諏訪郡連合大運動会を開催するなど、前例のない学校活動を次々と打ち出していった。試験を廃止し、休憩時間は職員室を出て校庭に出て児童と運動した。同年の秋には、宮沢国穂、三村安治、守屋喜七と共に諏訪教育大会を開催。長七は「体育運動の奨励と活動主義の教育」との題目で論じ、従来の形式主義・厳粛主義の教育を排することを主張した。

こうした新教育の実践は、旧来の教育思想を持つ教育者と衝突を生んだ。長七は「主義方針等現任校長ト意見ヲ異ニシ為ニ往々其指揮命令ヲ遵守セス」とされ、1899年、下諏訪高等小学校に転任させられた。しかし、転任先でも、新教育を貫く長七と、旧来の教育思想を持つ校長とで衝突し、半年で岡谷高等小学校に転任させられた。ここでも教育思想が相いれず、次第に孤立していった長七は、辞職を余儀なくされた。

あまりにも革新的な教育と長七の言動が諏訪郡内に知れ渡り、諏訪郡内での受け入れ校は皆無であった。教師職を解任される危機であったが、群外の小諸小学校の伴野文太郎の助けを受け、1900年、小諸高等小学校に着任。教育界を追放される危機を脱した。

長七は、年度途中より校長職に就いた佐藤寅太郎の理解もあり、小諸高等小学校でも変わらずに新教育を次々と実践していった。当時の教え子には、小山邦太郎(後の陸軍政務官・小諸市長)らがおり、わずか1年間の教師生活ながら、その後の小諸時代の教え子との交流は「立志同級会」として長く続いた。1年間の小諸生活の後、長野師範学校の校長からの推薦を得て、念願の東京高等師範学校への進学を叶えた。長七は小諸を去るにあたって、3年間の信州での生活や雄大な自然への思い込め、「小諸を去る辞」を詠んでいる。
高等師範時代と現代教育観の脚光

1901年4月、長七は東京高等師範学校へ入学。1903年10月21日には、諏訪高等小学校時代の教え子であり、高島尋常小学校の教員であった塩原ふゆと結婚。また、同年には諏訪中学校の依頼を受けて、校歌「東に高き」を作詞している。1905年、師範学校の研究科を卒業するとすぐに同校の附属中学校の英語科助教諭(5年後に教諭昇格)に就任した。

1912年東京朝日新聞の文化欄に、長七が黒風白雨楼のペンネームで、当時の教育界の様々な諸問題を鋭い視点で革新的に論じた「現代教育観」を全48回にわたって掲載。一教師であった長七の評論が掲載された背景には、長野師範学校の学友である太田水穂の推薦があった。「圧迫になやめる現代の中等教育」「女学校教育の価値」「画一教育の普及」「入学試験の悪影響」「軍事中心主義の弊」といった題目で、旧態依然の教育界の刷新を紙面で訴えた。この記事の掲載は、当時の教育界のみならず、各界で大きな話題を呼ぶことになり、伊藤長七が知られるきっかけとなった。


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