伊藤計劃
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伊藤 計劃
(いとう けいかく)
ペンネーム.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}伊藤 計劃(いとう けいかく)
誕生伊藤 聡
(1974-10-14) 1974年10月14日
日本東京都
死没 (2009-03-20) 2009年3月20日(34歳没)
日本・東京都
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴武蔵野美術大学造形学部映像科
活動期間2007年 - 2009年
ジャンルSF
代表作『虐殺器官
ハーモニー
主な受賞歴アフタヌーン四季賞冬のコンテスト佳作(1999年)
星雲賞(2009年)
日本SF大賞(2009年)
フィリップ・K・ディック賞特別賞
(2011年)
デビュー作『虐殺器官』
影響を受けたもの

小島秀夫

影響を与えたもの

伴名練柴田勝家伏見完

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伊藤 計劃(いとう けいかく、本名:伊藤 聡[1]1974年昭和49年〉10月14日 - 2009年平成21年〉3月20日[1])は、日本SF作家武蔵野美術大学美術学部映像科卒業。

2007年に、『虐殺器官』で小説家として本格的にデビューしてからわずか2年ほどで早逝したが、この作品はゼロ年代日本SFのベストに挙げられている[2]
略歴

千葉県八千代松陰高等学校を経て、武蔵野美術大学美術学部映像学科卒業[1]。1999年、『ネイキッド』にてアフタヌーン四季賞 冬のコンテスト(選考者 かわぐちかいじ)佳作を受賞(四季賞CHRONICLE解説書 72頁より)。2004年1月から「はてなダイアリー」にて映画・SF評論ブログを開始する。

Webディレクターの傍ら執筆した『虐殺器官』が、2006年第7回小松左京賞最終候補となり、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションより刊行され、作家デビュー。同作は『SFが読みたい! 2008年版』1位、月刊プレイボーイミステリー大賞1位、日本SF作家クラブ主催の第28回日本SF大賞候補となる。

全く同じ経緯でデビューした円城塔[注 1] と共に、期待の新人として脚光を浴びるも、2009年3月、ユーイング肉腫の多発転移のため死去。

2009年12月6日、遺作となった『ハーモニー』で第30回日本SF大賞を受賞した。「特別賞」枠を除き、故人が同賞を受賞するのは初めてである[3]。2010年に同作の英訳版が出版され、アメリカペーパーバック発刊されたSF小説を対象とした賞であるフィリップ・K・ディック賞の特別賞を受賞した[4]

約30枚の未完の原稿は絶筆として河出文庫の大森望責任編集『NOVA1』に収録。遺族から承諾を得て円城塔がこの原稿を引き継ぎ、2012年8月に『屍者の帝国』として刊行した[5]

長編の3部作品である『屍者の帝国』『ハーモニー』『虐殺器官』はアニメ映画化され、ノイタミナムービーとして順次劇場公開されている。また、『虐殺器官』については実写映画の公開も予定されている。
作風

作品はすべて一人称で書かれており、またその小説自体が「作品世界内に存在するテキスト」や「作品世界内の人物への語りかけ」として描かれる場合が多い。
エピソード

漫画家の
篠房六郎糸杉柾宏は大学時代からの後輩[6][7]・先輩[8] にあたる。

相当なシネフィルとしても知られ、黒沢清の映画から受けた強い影響を度々口にしている。自身のサイトではナイン・インチ・ネイルズの全作品をレビューしたり、『機動戦士ガンダム』の設定の甘さへの批判をしばしば行っていた。贔屓の日本の映画監督では黒沢清、押井守を挙げている[9]。篠房六郎は、「同じ作品を見た後で先輩の評論を読むと、映画の視力が違うことに驚いた。私がぼんやりとしか見ていなかったものを、微細に的確に多角的に捉え、新しいものの見方を教えてくれた」と評した[1]

2001年、右足にユーイング肉腫が発見される。手術により病巣を除去したが、2005年には左右の肺への転移が判明。2006年に肺の一部を切除している。死去の直前には、全身6か所に癌が転移していた[10]

デビュー作『虐殺器官』は、癌が寛解状態だった2006年5月、10日間をかけて執筆した[10]

小島秀夫との交流

ゲームデザイナー小島秀夫の熱狂的なファンであった。学生時代にプレイした『スナッチャー』から小島の作品にのめりこみ、「小島原理主義者」「MGSフリークス」を自称するほどであった。特にメタルギアソリッドの二次創作を中心に手がけており、後にゲームの公式ノベライズを担当した。

小島と伊藤は、「東京ゲームショー98春」での『メタルギアソリッド』の展示ブースではじめて出会った。ゲームの大ファンであった伊藤は小島にトレーラーの感想を熱心に語り、小島も熱心なファンとして記憶した。その後も同人誌やファンレターを送るなど、ファンとクリエイターという関係での交流がつづいた。

2001年9月、小島は入院した伊藤への見舞として、社外秘であった開発途中の『メタルギアソリッド2』のカットシーンを持参した。伊藤は映像を見終わったあと「ゲームが完成するまで死にません」といったという。その後、発表会に小島は退院した伊藤を招待し、この頃には「友人同士」の関係になっていた。発売された『メタルギアソリッド2』は賛否両論だったが、伊藤は自分のウェブサイトで「こんな作品を喜ぶのは俺だけだ!」と擁護した。

作家デビュー作である『虐殺器官』を小島は絶賛した。原型となった短編小説が小島の初期の作品である『スナッチャー』のファン小説ということもあり、小島は開発中だった新作『メタルギアソリッド4』のノベライズを伊藤に依頼する。伊藤も、ノベライズにありがちな軽い文章にすることを避け、再読できる立派な「小説」をめざして執筆し、その出来には小島も満足した。小島は、引きつづき『メタルギアソリッド3』とその後の話である次回作をひとつの小説として伊藤に依頼する考えであった。

しかし、伊藤は再入院する。2009年2月、見舞に行った小島はベッドに伏せる伊藤と映画や小説の話をしたが、虚ろな表情のままほとんど返事もない状態であった。「伊藤さんに元気になってほしい。生きることを諦めてほしくない」と思った小島は、その時点では未発表だった新作『メタルギアソリッド ピースウォーカー』の構想を話すと、伊藤は笑顔を取り戻し、「完成するまで頑張ります」と言った。だが、2度目の約束は果たされず、伊藤は翌月この世を去った。

翌年(2010年)4月にPSPで発売された『メタルギアソリッド ピースウォーカー』には、エンディングで「この『PEACE WALKER』を伊藤計劃氏に捧ぐ」とのメッセージが収録されている(2011年11月にPS3Xbox 360で発売された、『メタルギアソリッド ピースウォーカー HDエディション』にも収録)。その後、伊藤の果たせなかった『メタルギアソリッド3』・『メタルギアソリッド ピースウォーカー』のノベライズはそれぞれ長谷敏司・野島一人(矢野健二)によって行われ、ともに2014年に発売された。


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