伊藤真一
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伊藤慎一」とは別人です。

伊藤真一

グランプリでの経歴
国籍 日本
活動期間1988 - 2007
チームホンダドゥカティ
レース数66
チャンピオン0
優勝回数0
表彰台回数6
通算獲得ポイント510
ポールポジション回数7
ファステストラップ回数1
初グランプリ1988 500cc 日本
最終グランプリ2007 MotoGP 日本
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1993年日本GP

伊藤 真一(いとう しんいち、: Shinichi Ito、1966年12月7日 - )は、宮城県角田市出身のオートバイロードレースライダー仙台SOSモデルエージェンシー所属。宮城県岩沼市でGARAGE EDIFICE(ガレージ エディフィス)を経営する実業家としての顔も持ち合わせる。
略歴
1980 - 1990年代

その端正なルックスと国際A級昇格と同時にホンダ・レーシング(HRC、ホンダワークス)入り、しかも当時の最高峰、全日本ロードレース選手権・GP500クラスにいきなり参戦することで『シンデレラボーイ』と騒がれた。初期の頃は上位フィニッシュか転倒かの両極端なレース展開であった。[注釈 1]1990年には、1987年から3年連続全日本の500チャンピオンに君臨していたヤマハ藤原儀彦を降し初の全日本タイトルを獲得。

ロードレース世界選手権(WGP)デビューは1988年の日本グランプリ、3番手まで浮上したものの1コーナーにて転倒。WGPフル参戦は1993年から、1996年までの4年間を戦うが最高位は2位。

1997年からはホンダに『鈴鹿8耐で勝ってくれ』との使命を受け戦いの場を再び日本へと移す。その使命通り、8耐では宇川徹とペアを組み優勝。これはフルタイム8耐で初の日本人ペア優勝記録でもある。翌1998年も同ペアでの2連覇を果たす。この年、後に最多ホルダーとなる8耐ポールポジションを初獲得。全日本のスーパーバイククラスでも2冠目となるタイトルを獲得した。
2000年代

マシンがRVFからVTR1000 SPWに切り替わった2000年はスーパーバイクの日本ラウンドでワイルドカード参戦。最終予選で転倒し、右手薬指を痛め、欠場を決めた事を皮切りに、8耐で岡田とコンビを組む事になったが、木曜日のフリー走行で遅いマシンに走行ラインをふさがれて、岡田が転倒。左足の靭帯を損傷。そして、決勝日の午前に行なわれたフリー走行で岡田はヘアピン先の高速コーナーでまたしても転倒し決勝への出場を断念(代役は鎌田学)するなど、伊藤は、8耐後に開催されたSUGOラウンドで、追突され転倒したアクシデントで、右手小指を開放骨折するなど怪我に苦しんだ。

2001年はホンダとテスト契約となり、それと並行してブリヂストンのテスト契約も始まる。

2005年・2006年には、全日本のJSB1000クラスで2年連続でチャンピオンを獲得。しかし3連覇を目指した2007年3月20日のツインリンクもてぎでの事前テストで、不運なクラッシュ[注釈 2]に見舞われ、左足の股関節と骨盤を痛める大怪我を負い、太田哲也公式サイト内での対談では「10人中9人の医者に引退しなさいと言われた」と発言している。

その後、1ヵ月半の入院を経て、人工股関節を入れることで選手復帰への可能性を見出し、「死ぬほどやった」というリハビリの末に復帰。 この復帰に際しても、「今回のトラブルで転倒して、それで終ったらメカニックも精神的に負担になるだろうし、自分もこのような形では終らせたくない」と話している。復帰レースとなった鈴鹿8耐では、パートナーとなるはずだった2006年の優勝ペア、辻村猛が事前のテストで負傷し、急遽ペアを組んだ若手の手島をリードしながら3位表彰台を獲得した。

2009年の8耐もTSR(テクニカルスポーツレーシング)から出場、ホンダがワークス体制での、ヤマハもファクトリー体制での出場を断念する中、HRCのマシン・スタッフなどが常駐するなど実質のホンダ・ワークスともいえる体制での出場で、優勝候補No.1と目されていた。パートナーでスタートライダーを務めた秋吉耕佑の序盤の二度の転倒により最後尾にまで落ちたものの、そこからは怒涛の追い上げで最終的には9位にまで順位を挽回した。
2010年代

2010年2月、23年前にHRC入りの記者会見を行ったのと同じ青山本社のウエルカムプラザにて同年を最後に全日本ロードレース選手権・JSB1000クラスから引退することを表明した。鈴鹿8耐への参戦やテストライダーとしての活動などは継続する。なお当人曰く『シーズンでやらないイコール引退。スポット参戦しても速くは走れない。だから終わりにしようと思ってます。』『ロードレースをやめるつもりはないんです。いずれ岡田(忠之)と組んで8耐とか出てもいいなって思うし。走るのは大好きだから、還暦になっても走っていると思う。』[1]と語っている。そして3月の東京モーターサイクルショーではトークショーにて6月頃に自らの2輪ショップの開業を予定していることを公表した。

10月30・31日に鈴鹿サーキットで行われた全日本ロードレース選手権・第7戦を最後にJSB1000クラスを「卒業」した。ただラストレースとなった同レースでもレース1・レース2で共に2位に入り、一線級の実力を未だ保持している様子を見せたため、レース後に行われたシーズンエンドパーティーでは伊藤に対し選手会一同から「留年」と書かれたパネルが手渡されるなど、以後も引退撤回を望む声が根強かった[2]

2011年はホンダのMotoGP用マシンの開発ライダーとしてテストを担当する予定だったが、同年3月に発生した東日本大震災で当時名取市在住だった伊藤も被災。経営していたバイク店は営業休止に追い込まれ、親族を亡くしたが「被災者激励のため」として急遽引退を撤回し、全日本ロードレース選手権の開幕戦に出場[3]、決勝3位で表彰台に登った。なおこの参戦はマシンをTSRからレンタルしてのスポット参戦であり[注釈 3]、以降はスポーツランドSUGOで開催された第5戦にスポット参戦したのみである。

同年7月31日の鈴鹿8耐では、ホンダのマシンであるCBR1000RRにて秋吉耕佑、清成龍一とともにF.C.C. TSR Hondaから出場、伊藤の走行は1スティント(約1時間弱)にとどまったものの、自身4度目となる優勝を飾った。またこの優勝で、自身の持つ鈴鹿8耐の最年長優勝記録を44歳236日に更新した[4]

同年のMotoGP日本グランプリにもワイルドカード枠でスポット参戦したが、事前テストもないほぼぶっつけ本番での参戦だったことから、結果は決勝13位(完走車の中では最下位)という結果に終わった。

2012年以降レース活動から原則身を引き、鈴鹿8耐に参戦する以外は、一時ホンダの開発ライダーの業務に専念していた。

2016年、FIM世界耐久選手権に参戦するTSRチームが、伊藤をライダーの一人として起用することを発表[5]。久々の現役復帰となった開幕戦・ボルドール24時間耐久ロードレースでは5位という結果に終わった[6]

2017年は3年ぶりに鈴鹿8耐に参戦することを決定[7]。ただ8耐のシード権を持っていないため、6年ぶりに全日本ロードレース選手権・JSB1000クラスに復帰。8耐のトライアウトを兼ねた第2戦・第3戦とスポット参戦し、第3戦でエントリー資格を獲得した。
2020年代

2020年1月、自身が監督を務めるレーシングチームとして「Keihin Honda Dream SI Racing」を設立、全日本ロードレース選手権に参戦することを明らかにした[8]。ライダーはJSB1000クラスに清成龍一渡辺一馬、ST1000クラスに作本輝介を起用し、マシンはホンダ・CBR1000RR-Rを投入する。
人物

40歳を過ぎても、全日本ロードレース選手権JSB1000クラスや鈴鹿8耐でトップを走り続ける驚異的な成績を残しており、『鉄人』と言われる所以でもある。

年間300本以上はワインを開けるというほどの大のワイン好きでも有名であり、2009年10月には日本ソムリエ協会から名誉ソムリエの認定を受けている。

アマチュアドライバーとしてスーパー耐久(S耐)等にも参戦。S耐参戦時は、TUBE松本玲二岡田忠之らとチームを組んだりすることもある。2009年のS耐第1戦(ツインリンクもてぎ)ではホンダ・インテグラタイプRを駆り、松本・渋谷彰良と共にST4クラスで優勝を飾っている。


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