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伊藤 清
コーネル大学にて(1970年)
生誕1915年9月7日[1]
日本・三重県員弁郡[1]
死没 (2008-11-10) 2008年11月10日(93歳没)
日本・京都府京都市左京区[2]
呼吸器不全[2]
居住 日本
国籍 日本
研究分野数学
研究機関京都大学
プリンストン高等研究所
コーネル大学
オーフス大学
出身校東京帝国大学
博士課程
指導学生渡辺信三
国田寛
福島正俊
主な業績伊藤の補題の提唱
主な受賞歴朝日賞(1977年)
恩賜賞(1978年)
日本学士院賞(1978年)
ウルフ賞数学部門(1987年)
京都賞基礎科学部門(1998年)
ガウス賞(2006年)
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伊藤 清(いとう きよし、1915年〈大正4年〉9月7日[1] - 2008年〈平成20年〉11月10日)は、日本の数学者、大蔵官僚。学位は理学博士(東京帝国大学・1945年)。位階は従三位。確率論における伊藤の補題(伊藤の定理)の考案者として知られる。第1回ガウス賞受賞者。
略歴
出生から学生時代伊藤清(右)と伊藤清三(1937年)
1915年、三重県員弁郡(現いなべ市)で生まれた。同じく数学者である伊藤清三は弟[3]。東京帝国大学理学部数学科で学び、1938年に卒業した。
卒業後内閣統計局にて(1940年)
卒業後の1938年、大蔵省入省。銀行局に配属された。1939年、内閣統計局に配転される。1943年、内閣統計局を退官し、名古屋帝国大学助教授となった。1945年、東京帝国大学に学位請求論文『確率過程について』を提出して理学博士の学位を取得[4]。1952年、京都大学教授に転じた。1976年から1979年まで、京都大学数理解析研究所所長を務めた。1979年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は学習院大学理学部教授として教鞭をとった。1985年、学習院大学を退職。
その他の職歴
1954年 - 1956年:米国プリンストン高等研究所研究員。
1961年 - 1964年:米国スタンフォード大学教授。
1966年 - 1969年:デンマークオーフス大学教授。
1969年 - 1975年:米国コーネル大学教授。
会員等歴
1979年:京都大学名誉教授
1981年:パリ第6大学名誉教授
1987年:チューリッヒ工科大学名誉教授
1989年:フランス学士院外国人会員
1991年:日本学士院会員
1992年:ウォーリック大学名誉教授
1995年:モスクワ数学会名誉会員
1998年:米国科学アカデミー外国人会員
受賞・栄典
学術賞等
1962年:国際数学者会議 Stockholm 招待講演[5]
1977年:朝日賞[6]
1978年:恩賜賞、日本学士院賞[7]
1985年:藤原賞[8]
1987年:ウルフ賞数学部門
1998年:京都賞基礎科学部門[9]
2006年:第1回ガウス賞
栄典
1987年:勲二等瑞宝章
2003年:文化功労者[10]
2008年:文化勲章
同年:従六位から従三位へと昇叙
研究内容・業績
伊藤の補題ブラウン運動の軌跡。伊藤の定理を使うことで、このランダムな曲線の数学的な解析が可能になる