伊藤 梅子(いとう うめこ、嘉永元年11月8日(1848年12月3日) - 大正13年(1924年)4月12日[1])は、伊藤博文の継妻、女流歌人[1]。 1848年、木田久兵衛の長女として長門国(現山口県)で誕生。赤間関(下関)稲荷町の置屋「いろは楼」の養女となり、芸妓となって「小梅」を名乗る。1864年(元治元年)頃、イギリスからの帰国間もない伊藤博文と出会う。当時、博文は既に入江九一・野村靖の妹であるすみ子
生涯
夫の博文が初代内閣総理大臣となったことにより、梅子もまた初の内閣総理大臣夫人となった。その様子は芥川龍之介の『花火』に記述されている。梅子は勝気で向学心に富み克己心が強く、下田歌子に和歌を学び、英語の習得にも心がけた。常々身だしなみに気を配り、婦徳の鑑と称された。
1909年10月26日に博文が暗殺された際には、梅子は涙ひとつ見せなかったが、自室で「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と詠んだとされる。その後、滄浪閣(神奈川県中郡大磯町)を出て東京の生子の嫁ぎ先の末松謙澄邸などを転々とし、1924年4月12日に死去した。 [脚注の使い方]
脚注
^ a b ⇒国学関連人物データベース「伊藤梅子」 。國學院大學
参考
「伊藤梅子」『日本女性人名辞典』[普及版]、日本図書センター、1998年 ISBN 4-8205-7881-2
父逝いて五十年 伊藤博文小伝記 伊藤眞一1959年 伊藤博文追頌会
やっぱり妻には かないません! 初代総理大臣 伊藤博文の妻 梅子
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更新日時:2019年5月8日(水)02:47
取得日時:2021/03/29 01:41